「はじめまして」

 現場から会社への帰り道にある、チェーンの牛丼屋で昼食を済ませたところだった。誠二は車に乗り込もうとしたところで、ふと振り返った。名前を呼ばれたような気がしたのだ。目に飛び込んできたのは派手な色使いの柄物のシャツだ。道路を横断し、手を振りながら大股でこちらに向かってくるひょろりと背の高い男の顔には見覚えがあった。
「ひっさしぶりだなー。何だよ、おまえ。辞めてからこっち、全然連絡も寄越しゃしないでよ」
 当時と寸分違わぬ口調で、当時より幾分皺の増えた顔をくしゃりと歪ませながら男は笑った。

 駐車場の隅に設置された自動販売機でホットコーヒーをふたつ買う。ひとつはブラック、もうひとつは微糖だ。微糖のほうを差し出すと、「サンキュ」と、男はどこか懐かしそうに目を細めた。
「ご無沙汰してます」
「何年ぶりになる?」
「二年半、ですかね」
「……そうか。もうそんなになるんだな」
 言いつつ彼は缶のプルトップを引き開け、口をつけることもなく車のボンネットの上に置いた。そういえばひどい猫舌だったな、と思い出す。
 佐伯勇作。今の会社に入る前にいた設計事務所で同僚だった男だ。年齢的には五つ上となる。
 誠二は車のボディに背を預け、コーヒーに口をつけた。
 十年。今のように彼と肩を並べ、共に仕事をした年数だ。多くのことを彼から教わった。吸収させてもらった。彼から得たものはとても多く、今の自分があるのは彼のおかげだといってもいい。
「佐伯さん、独立されたって聞きましたけど」
 風の便りに聞いた話だ。
「ああ、まあな」
「おめでとうございます。……遅ればせながら、ですけど」
「本当だな」
 佐伯はおかしそうに笑った。誠二もまた、懐かしさに目を細める。少しも変わっていない。佐伯はとにかくよく笑う男だった。明朗快活な佐伯の周りにはいつも多くの人が集まった。
「かれこれもう二年になる。ま、ようやく軌道にのってきた、ってかんじかな」
 おまえは? と訊かれ、佐伯のほうを見る。
「おまえはまだ同じとこにいるのか?」
 今いる会社からの引き抜きの話がきたとき、真っ先に相談を持ちかけたのが佐伯だ。正直、迷いがあった。すっかり身体に馴染んだ居心地のいい職場を出ることに。すべてまた一から積み上げ直さないといけない。職場での人間関係、関連業者との人間関係、仕事の手順、その他諸々。
 佐伯はいつものように笑った。行けよ、と。そのとき叩かれた肩の痛みが、誠二に一歩を踏み出させた。
「うまく、やってるのか?」 
「まあ、それなりに」
「何人、辞めさせた?」
 おどけた物言いの佐伯に肩をすくめてみせる。
「……二人、いや、三人、ですかね」
 やっぱりか、と佐伯が車のボディから身体を浮かせて笑う。
「まあ、でも今、俺の下にいるヤツでなかなか面白いのがいます」
「へえ?」
「そいつも俺と同じように引き抜き組で。若いんで、まだまだ荒い部分もありますけど、数年したら大化けすると思います」
「そうか、それは楽しみだな」
「ええ」
「で? おまえは独立とかそういうことは考えてないのか?」
 佐伯が横から煙草をパッケージごと差し出してきた。
「いや、俺はまだそういうことは、」
 言いつつ片手を上げ、断る。
「なんだよ、遠慮すんなよ」
「いえ、もうやめたんですよ」
「は!?」
 佐伯はやや大袈裟すぎるくらいに大きな声を上げた。
「やめたって、おまえが? 一日に最低二箱は空にしてたおまえがか!?」
「もう二年近くにはなりますよ」 
 思わず苦笑する。当時の周囲の反応とまったく同じだったからだ。
「……おまえがなー」
 とても信じられないといったように唸り声をあげつつ、佐伯は咥えた煙草に火をつけた。細く吐き出された紫煙がゆらゆらと立ち上る。味わうように深く吸い込み、ゆっくりと吐く。三度くり返したところで、佐伯がぽつりと言った。
「ま、考えてみりゃ、おまえは他人に厳しかったが、自分にはその何倍も厳しいヤツだったからなー」
 佐伯はとうに冷え切ったコーヒーを手にとり、ずずっと啜った。そして大きく溜息をつく。
「俺はたぶん、一生やめらんねーわ。かみさんはやめろやめろってうるさいんだけどな」
「奥さん、お元気ですか?」
「元気元気。元気すぎるくらいだわ。俺の栄養までぜんぶもってっちまってるんじゃないかってほど、横幅も増える増える」
 身振り手振りを交えつつ話をする佐伯は、やはり昔となんら変わっていない。そのことになぜかとても安堵する。 
「おまえは、結婚は?」
 いえ、と言葉短かに答える。
「予定も?」
「……とくにないですね」  
 そうか、と佐伯は呟き、二本目の煙草に火をつけた。風で煙が流れてくる。かつて誠二が好んで吸っていたのと同じ銘柄だ。なぜか、無性に吸いたくなった。誤魔化すようにコーヒーを飲む。痺れにも似た苦さが口のなかに広がった。


 会社に戻ると、フロアーの一角にある個室から出てきた上司に呼び止められた。
「ちょうどよかった。いつ戻ってくるのか電話しようとしてたところだったんだ」
 少し遅れて、総務の女子社員が空のトレイを持って出てくる。どうやら来客のようだ。
「何か急用でも?」
「いや、ほら、この前話してた、新しく取引することになった建材屋。そこの営業が挨拶に来ててな」
 今まで取引のあったところからべつの建材屋に発注を変えようという話が少し前に持ち上がった。以前からトラブルが続いていたため、そこの担当者が今年定年を迎えるこのタイミングで、すっぱり取引をやめようということになったのだ。忙しいこの時期にいささか面倒なことではあるが。
 室内に入ると、なかにいた男が二人、さっと立ち上がった。一人は恐らく自分と同じくらいの年齢だ。岡田と名乗った。そしてもう一人──
 若い男だった。誠二を見た瞬間、その男の顔がわずかに強張ったような気がした。気のせいだろうか。だが、何かが頭の隅をかすめた。
「梶原といいます」
 その声には聞き覚えがあった。それもごく最近。やはり気のせいなどではなかったのだ。自分の顔の皮膚もまた、男と同じように引き攣ったのが分かった。
 差し出された名刺に視線を落とす。梶原佑介。それが男の名前だった。
 顔を上げると、こちらをまっすぐに見据える梶原の視線とぶつかった。そうだ。この目だ。あの晩、沙耶を胸に抱く誠二を見ていた目。奥に何か、鋭いものを潜ませた。
「どうも、里村です」 
 意識して声のトーンを上げ気味にする。それでも、通常よりかなり低めの声が出た。
 だが、梶原はとくに気にした様子もなく、言った。はじめまして(・・・・・・)、と。
 それから単語ひとつひとつなぞるような、ゆっくりとした口調で言葉をつないだ。
「里村さん、これからどうぞよろしくお願いします」

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