嵐の夜に。

 咳が、止まらない。
 ベッドの上でのろのろと身体を起こす。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。レースのカーテン越しに差し込んでくる日差しは、すでに弱々しいものになっていた。ばさりと顔を覆った髪をかき上げ、かき上げたところでまた発作的に咳き込む。
 薬は飲んだ。だが、気休め程度にしかならない。いつも、唐突にやってくる発作は、嵐のようなものだ。ただ息を潜め、それが過ぎ去っていってくれるのを待つしかない。
 喉元を押さえ、身体を折ってまたベッドに倒れ込む。喉の奥が、肺が、とにかくその周辺の組織全部が痛い。痛くて、熱い。生理的に出た涙が頬を伝い、シーツを濡らす。
「あー、もー、しんど……」
 少し落ち着いたところで仰向けに転がる。
「この、役立たずのポンコツめ」
 咳のしすぎで枯れてしまった声で天井に向かって悪態をつく。声はそのまま降ってきた。
 喘息に、各種アレルギー。生まれつき身体が弱かった。ちいさな頃はしょっちゅう発作を起こしては入退院をくり返し、今でこそ量は減ったものの、飲み薬はほぼずっと途切れたことがない。
「仕事しなきゃ」 
 手を伸ばし、ベッドの下から資料を取り上げる。明日は打ち合わせが入っている。どうしても今日中にプランをまとめてしまわないといけない。この時期、休んでいる暇などないのだ。ほんの少し張り切ったくらいですぐにオーバーヒートしてしまうこの身体が恨めしい。
 嵐が小康状態になったタイミングを見計らい、何とか形にしたところで力尽きた。指一本、動かす気力さえない。
 小さく息を吐き、目を瞑る。ちょうど下校時刻なのだろう。近くの小学校の生徒のものと思われる子供の声が外から聞こえてくる。賑やかで、楽しそうだ。
 すぐそばではひゅー、ひゅー、とひどくざらついた耳触りな音。戸の隙間から冬枯れの風が入り込んでくるときのような。いやな音だ。とても嫌な──音。
 また、眠ってしまっていたらしい。目を開け、驚いた。上から沙耶を見下ろす誠二がいた。すっかり暗くなった部屋で、影が差すその顔はひどく不機嫌そうに見える。
「……どうしたの?」
 素朴な疑問だった。
 ──なぜ、ここにいるのか。
 平日の、しかも忙しいこの時期に。誠二が今、沙耶の部屋にいる理由がわからない。
「どうしたの、じゃないだろう」
 声にはやはり、明らかな不機嫌さが滲んでいた。
「なんで電話しない」
 なんで、と言われても。
 誠二がベッドの端に腰を下ろした。重みでベッドのスプリングがぎしぎしといやな音をたてる。
「いつものやつか?」
 少し、声がやわらかくなった。そのことにほっとし、頷く。
「大丈夫。大したことないよ」
 引き攣ったような、かすれた声が恥ずかしい。手が伸びてきて、沙耶の頬を大きな手のひらが覆った。
「大したことない、ね」
 言いつつ、親指が皮膚をなぞる。指先が何かに引っかかった。きっと涙のあとだ。くすぐったさに思わず息を吸い込んだのがいけなかった。また、やってきた。喉の奥のほうからせり上がってくる。力を込め、何とかこらえようとしたが、だめだった。両手で口を覆い、身体をくの字に折り曲げ、激しく咳き込む。
 ふいに、両脇の下に手が差し込まれる。あっという間に上体を起こされた。そのまま誠二の身体に凭れかかるようにされる。背中に回された手が、背骨に沿って上下する。やさしく、いたわるように撫でられる。
 苦しさに、思わず誠二のシャツを掴んでいた。その手が解かれ、代わりに誠二の右手が与えられる。
「爪、たてていいから」 
 絡んだ指は温かくて、やさしくて、そのやさしさに必死にしがみつく。内蔵が裏返ってしまうのではないかと思うほどの苦しさも、身体に触れるぬくもりに滲んで、少し楽になった気がした。
 誠二は何も言わない。何も言わず、休むことなく背中を撫でる。嵐はなかなか過ぎ去ってくれない。それでも、ぴたりと寄り添った温かさが、いつもよりほんのすこしその嵐に耐える強さを与えてくれる気がした。

「ごめん、……もう、大丈夫」
 ようやく呼吸が落ち着いたところで、握っていた手をはなす。力を入れすぎたためか、手はひどく強張って、汗でべたべたになっていた。
 誠二が立ちあがり、部屋の電気を点けた。眩しさに瞬きを何度かくり返すと、ようやく視界かクリアになった。見慣れたいつもの自分の部屋。ここ数日、忙しさを理由にあまり掃除をしていない部屋は少し乱雑で、恥ずかしくなる。
「寒いかもしれないけど、少し、窓開けるぞ」
「うん」
 ベッドの足元の掃き出し窓が全開にされる。カーテンがゆらゆらと舞い上がり、夜の匂いをはらんだ冷たい風が入ってきた。ぬるく淀んでいた部屋の空気がゆっくりと動き、少しずつ置き換わっていく。
「ほら」
 誠二が差し出したグラスを受け取る。冷たい。氷の入った水。ひどく喉が乾いていることに気がつく。ひと息に飲もうとしたところを、「ゆっくり」とたしなめられる。まるで母親のようだ。そう思ったことは伏せておく。
「すこし無理しすぎなんじゃないか?」 
 誠二の視線はベッドサイドのチェストの上に注がれている。そこには仕事で使う資料が山積みになっていた。
「無理もするよ」
 インテリアコーディネーターとしてはまだまだ駆け出しではあるが、最近は指名で仕事を任されることも多くなった。今はとにかく一件でも多く数をこなしたい。実績が欲しい。目標はまだまだあまりに遠い。
 誠二が、ぽん、と沙耶の頭に手をのせた。
「ま、ほどほどに」
 そっちこそ、という言葉は寸前で呑み込んだ。それが許される職種ではないことも、誠二の妥協のなさも十分すぎるくらいに知っている。それでも、心配だ。この前会ったときと同じ、目の下の隈が濃い。睡眠はちゃんととれているのだろうか。食事はちゃんととっているのだろうか。
「なんか食えそうか? 出るのがしんどいならなんか買ってきてやるよ。簡単なもんなら作ってもいいし」 
 少し考え、首を振る。喉が痛い。とても何かを口にする気にはなれなかった。
「ううん、ありがと。食欲ないからいいよ」
「そっか。んじゃ、もう寝ろ」
「え、でも、」
 せっかく来てくれたのに。せっかく会えたのに。
 もっと顔を見ていたい。もっと声を聞きたい。もっと、もっと──
 また、言葉を呑む。気を抜いたら出てきてしまいそうで、俯き、必死に飲み下す。
「そばにいてやるから」
「え?」
 思わず、顔を上げてしまっていた。
「朝までそばにいてやるから」
 さっきとはまるで違う、瞳の奥のやさしい光に、心が蕩けそうになってしまう。縋ってしまいそうになる。沙耶は慌てて顔を伏せた。
「ありがと。でも、だ、だいじょうぶ。もう大丈夫だから。だから、」
 声が震えた。必死に取り繕った言葉は、取り繕った端からぼろぼろと解けてしまいそうになっている。なさけない。
「だからもう帰って……いいよ」      
 喉の奥が、そのまたずっと奥、胸のあたりもひどく痛む。痛みに、涙が出そうになる。
「そっか。じゃあ、ゆっくり寝ろよ」
 ぽんぽん、とまたいつものように頭を叩き、視界のなかの誠二の脚が踵を返した。何かを期待していたわけではない。けれど、あまりの呆気なさに、ぽん、と突き放されたような淋しさを覚え、「あ」と顔を上げる。
 そこには、行ってしまったと思っていた誠二が立っていた。口許に指をあて、顔にはかすかに笑みを浮かべている。騙されたことはすぐにわかった。
「……ひどい」 
「どっちが」
 あっという間に笑いを引っ込めて、むすりとした声が返された。言われた意味が分からず、黙る。
 大股で近寄ってきた誠二が、ばすん、と派手な動作でベッドに腰を下ろした。ベッドのスプリングが思いきり悲鳴を上げる。
「具合が悪いってのに、電話一本寄越しゃしない。ついててやるっつってんのに、さっさと追い返そうとする。青い顔して、今にも泣きそうな顔して。俺がいったい何のために、誰のために来たと思ってる? ったく、どっちがひどいんだか」
 一気に、何かを吐き出すように連ねられた言葉の奥には、怒りというよりは、むしろ痛みのようなものがあって。
「……あ、……だって、」
 言葉が、出てこなかった。あっという間に視界が滲んでいく。口許を覆った指先に、ぱたぱたと涙が落ちた。
「ごめん。……ごめん、そうじゃなくて、」
 頭を抱えられ、そのまま引き寄せられた。
「ほんと、おまえはいつも我儘なくせして、へんなとこ遠慮しいっていうか。甘え下手、だよなあ」
 涙が、止まらない。震える身体を、誠二の腕がやさしく包む。
「ここに来たのも、そばにいてやるっていうのも、俺がただそうしたいってだけだから、」 
 だから気にすんな、と耳元で声が言い、沙耶は堪え切れずに嗚咽を漏らした。

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