欲張りでわがままで単純で

「……や。さや」
 声とともに身体を揺さぶられる。目を開けると、誠二の顔がすぐそこにあった。どちらかというと硬い質感の前髪が目にかかっている。髪、伸びたな、などと考えていると、「電話」と目の前に携帯が差し出された。受け取り、のそのそと炬燵から這い出す。反射的に通話ボタンを押しかけるも、寸前で止め、そばに放った。ラグの上に転がった携帯はそのまましばらく音を鳴り響かせていたが、やがて諦めたようにぷつりと途切れた。
「……よかったのか? 出なくて」
「うん、いいの」
 短く答え、カーディガンを一枚脱ぐ。汗をかいていた。喉も乾いている。炬燵のなかで転寝してしまったせいだろう。それとも夕飯のときに飲んだワインのせいだろうか。ほんの少し、舐める程度に、だったのだが身体があつく、頭も少し重い。
 半身を起こし、炬燵の天板に顎をのせる。エアコンはついていない。部屋の乾いた空気が汗で湿った背中に心地いい。
「あともうすこし」
 つぶやいた沙耶の隣では誠二が天板に肘をついた格好でビールの缶を傾けていた。視線は沙耶と同じく目の前のテレビに向けられたまま。
 画面には鐘をつく僧侶と参拝に訪れた人たちが交互に映し出されている。少しして画面左上の時計が「0:00」に切り替わった。途端、男女のアナウンサーがにこやかに「あけましておめでとうございます」と、口を揃えたのとほぼ同時、沙耶は炬燵を出て誠二のほうを向いた。
「あけましておめでとうございます」
 膝を揃え頭を下げると、「おめでとう」と、声と手が降ってきた。いつものようにくしゃりと頭を撫でられる。誠二はことあるごとにそうやって沙耶の頭を撫でる。そうされることは好きだ。好きだけれど、少し複雑でもある。いつまでたっても子供扱いされているようで。
「二人でこうやって年越すの、はじめてだね」
「そうだな」
 沙耶にとって、誠二とはもちろん、家族以外の誰かと年越しを迎えるということ自体がはじめてのことだった。
「……なんだよ?」
 胸の奥のほうの、なんともいえないくすぐったさに俯く沙耶に、誠二が不審げな声を出した。なに、と言われても、この甘ったるい感情をうまく伝えられる自信はない。それにどうせ誠二さんには分からないよ、と恨みがましい感情が頭をもたげる。
 どうせ、だ。
 どうせ誠二さんにとってはべつにはじめてのことではないだろうし、今までに何人もの女の人とこうやって新年を迎えてきたのだろうし、だけどべつにそれをとやかく言うつもりもないし、もちろんそんなこと言われたって困るだろうし──
 埒もない考えが次から次へと浮かび、ああ、まただ、といつもの自己嫌悪に陥る。三十九歳と二十四歳。一回り以上の年齢差。ときどき、誠二の背中はどうしようもないほどに遠い。出会ったときからふたりのあいだに横たわる「時間」という名の距離。それはどう足掻いたって埋められるものではない。決して強くはないが、そのことが冷たい風となって心の奥のほうを撫で上げていく。さざ波は、いつまでたってもおさまらない。
 自分より年を重ねている誠二は色んな意味で経験豊富だ。自分が彼の隣に存在していなかったあいだの彼の人生。そのあいだ、彼の隣にいたであろう顔も知らない相手に嫉妬をしてしまう自分はやはり子供じみているのかもしれない。
 彼が隣に存在していなかったあいだの自分の人生。それは今よりずっと長い時間だったはずなのに、どうやってその時間を過ごしてきたのか、今ではもう思い出すことができない。
「どうした?」
 俯いた沙耶の頭を撫でる誠二の手はやさしい。そのやさしさに胸が痛む。沙耶の髪の上を滑り、頬に当てられた誠二の手をとり、そっと口付ける。まだ日焼けの残った手の甲に、それからごつごつと節だった指を唇でたどり、人差し指を口に含む。目を瞑っていたって、この手が彼のものだと言い当てる自信がある。
 ──今は、私のものだ。
 そう、たとえこの手が過去にどんな人にやさしさを与えていたのだとしても。たとえこの手が過去にどんな人の手を握っていたのだとしても。今この瞬間、この手は私のもの。私だけのもの。──そうやって言い聞かせる。
 大きな手に両手を添える。身長のわりにはちいさな自分の手。やっぱり子供みたいだ。
 指の輪郭を舌でゆっくりとなぞっていく。短く切られた爪、傷跡なのか僅かに硬く盛り上がった皮膚、あたたかい指先。その全部を舌で感じる。味わう。やわらかな部分に少しだけ歯をたててみる。歯がわずかに沈んだ。と、するりと指が逃げていった。
 あ、と思う間もなく、手を引かれ、今度は沙耶の指が誠二の口のなかに消えた。熱い舌がねっとりと絡みつくように指の腹を舐める。人差し指と中指の付け根部分を舌先が行き来し、そうしながらこちらを見る目に射竦められ、一気に全身の皮膚という皮膚が粟立った。
 引き戻そうとした手は、逆にがっちりと握られてしまった。わざと音をたてるようにして、指を執拗なまでに舐め、吸われる。
 急速に身体の芯が熱をもち、あっという間に息があがる。背中に手を添えられ、そのままゆっくりと横たえられる。
「誠二、さん」
 かすれた声が出た。自分でもわかる、熱を帯び、欲を含んだ声だ。求められることは素直にうれしい。だが、変わっていく自分を、誠二の手によって否応なしに変えられていく自分を見られることには、いつまでたっても慣れることができない。視線を感じる。はずかしい。見られることがはずかしい。目を瞑り、視線から逃げる。
 ようやく解放されたと思ったら、次は耳に熱を与えられる。熱い息とともに舌が押し込まれ、にちゃりという濡れた音が鼓膜を震わせた。は、と息が漏れた。身体が震える。
「誰?」
「……え?」
 耳に唇をつけたまま囁かれた声に、閉じていた目を開く。
「さっきの電話」
 さっきの電話? 
 熱に浮かされた頭はとうに思考を放棄していて、言葉の意味を咀嚼するのにしばしの時間を要した。
「なんで、出なかった?」
「なんで、って」
 理由は明白だ。ただ、言うには少し気がひける。あまりにくだらない理由で、笑われるのが目に見えていたから。
「出ればいいのに」
 声だけで、表情が見えないが何かが少し、いつもと違う気がした。思い過ごしだろうか。いつも何かを勘ぐって、勝手に不貞腐れ、感情をうまくコントロールできない自分とはちがい、誠二にはいつも余裕がある。それがまた悔しくもあるのだが。
「……べつにそん、」
 言いかけ、息をのむ。耳朶を口に含まれ、歯をたてられた。痛みはないが、そこから言いようもないほどの甘い痺れが全身に広がった。
 いつの間にかボタンを外されていたパジャマの胸元から、手が差し入れられる。ブラジャーをしていない胸を、下に着ていたキャミソールごと掴まれる。もうすでに硬く起ちあがった突起を布地の上から擦りあげられ、自分でも驚くほど甘い声が漏れた。
 唇を噛み、声を押し込める。はずかしい。自分だけが一方的に押し上げられている現状が。彼の息はまださほど乱れていないというのに。
 誠二の胸元に這わそうとした沙耶の手は、あっという間にひとまとめにして頭の上に固定された。身動きがとれない。一気に主導権を握られる。
 すべてのボタンを外され、無防備にさらけ出された胸の上を、押し潰すようにして誠二の手が動く。唇が首筋をゆっくりとなぞり、鎖骨の形を確かめるように皮膚をかすめていく。
 キャミソールが捲り上げられ、露わになった胸元に誠二が顔をうずめる。吐息が肌をくすぐる。すでに解放されていた腕にはまったくといっていいほど力が入らない。両手で膨らみを掬いあげるようにして、やわらかな部分に誠二の指が、唇が沈んでいく。なのに肝心な部分には触れてもらえず、焦れて、首に縋りついた。
 わかっているくせに、時折、わざとのように先をかすめられていくだけなのがうらめしい。
 誠二はいつになく意地悪だ。いつになく性急なくせに、ゆっくりと沙耶をいたぶり、煽り、それから堕とそうとしているのだ。声を出すことを必死に堪えた喉の奥が苦しい。息がうまくできない。何もかもかなぐり捨てて、もっと、と言ってしまいそうになる。
「キス、して」
 お願いだから、口を、唇を塞いで。
 ゆっくりと顔を上げた誠二と、視線が絡む。切れ長で、左右対称のきれいな目。色素の薄い瞳の奥の感情を探ろうとする。だが逆に、見られていることに気がついた。知られたくない。気づかれたくない。こんなにも浅ましく「女」である自分を。
 また、逃げた。かたく目をつぶって。目尻に温かいものを感じ、自分が泣いているのだと分かった。頬にやわらかいものが触れる。こぼれる涙を掬いとるように、唇が皮膚の上をなめらかに滑る。
「キスして、ほしい?」
 誠二はどこまでも意地悪だ。返事の代わりに、太い首に腕を絡め引き寄せる。唇に唇をぶつけるようしてキスをした。やわらかで、あたたかくて、それから少し、苦い。誠二の唇はさっきまで飲んでいたビールの味がした。誠二のキスはそのときどきでいろんな味がする。甘いものがきらいで、濃くて苦いコーヒーが好きで、ビールが好きで、辛い物も、それから暗い場所も平気で。
 ──やっぱり私とは全然ちがう。
「……不味い?」
 おかしそうに誠二が笑う。首を振り、唇を舐めると、何を思ったのか誠二は手を伸ばし、飲み残しのビールを一気に煽った。そのまま唇が重なる。ぬるくて苦い液体が口のなかにゆっくりと流し込まれる。だいぶ気が抜けているとはいえ、アルコールはアルコールだ。誠二とちがい、沙耶は酒にあまり強くない。すぐに喉の奥が熱くなる。口のなかに残ったビールを味わうように、誠二の舌がゆっくりと動く。
 身体にはまだワインの名残があった。酔いはあっという間にまわった。頭がふわふわとして、指先に力が入らない。あつい。身体のなかも、唇が触れ合った部分も、大きな手のひらに覆われた頬も、誠二と重なったどこもかしこも全部が熱を持っている。
 ふいに音が消えた。誠二がテレビの電源を落としたのだ。
「声、もっと聞かせろ」
 耳のすぐそばで囁かれた言葉に首を振り、抵抗する。だが、直後にその抵抗もあまりにたやすく折られてしまった。唐突に指が身体のなかに埋め込まれた。もうすでにぐずぐずになっているそこは、難なく誠二の指を呑み込んだ。静まり返った室内で、自らの喘ぎ声に鼓膜を犯される。
 何かを探るように指がゆっくりと出入りする。そのたびに押し殺した声が喉の奥で鳴る。このままどろどろに溶けて何もかもなくなってしまいそうな、そんな恐怖にも似た感情に囚われながらも、もっと、と知らず身体が動く。快楽を引き摺り出そうとする指に翻弄され、もう何もかもどうでもよくなってしまう。
「誠二……さん」
 声で縋ると、分かっているくせに、内側をゆっくりと撫でながら誠二は「なに?」と耳元で囁いた。
「欲しいものがあるなら、ちゃんと言え」
 わかってるくせに。
「……おねが…い」
「何を?」
 わかってるくせに。
 もどかしく唇を噛むと、身体を起こした誠二が上に着ていたものを脱いだ。取り出した避妊具のパッケージを口に持っていき、歯をたて一気に引き破る。下着ごとズボンを脱がされ、膝にあてられた手で脚を割り開かれた。入り口に熱いものが押し当てられる。
 ほしい。あなたがくれるものなら何だって。あなたから与えられるものは余すことなくすべて。
「……あなたが、ほしい」
 直後、押し入ってきたものは、それでもじりじりと焦らすようにゆっくりで、ようやくそれが最奥に達すると、沙耶はつめていた息を吐きだした。繋がった部分が熱くとろけて、きもちがよくて、それだけでおかしくなってしまいそうだ。
 深く深くキスをして、それから誠二はゆっくりと動きだした。手を回した背中は汗で少し濡れていた。動きに合わせてラグと背中のあいだで捩れる服が背中の皮膚に擦れて少し痛い。沙耶の身じろぎでそのことに気が付いたのか、誠二がクッションを引き寄せ、背中の下に滑りこませた。
「私、すごく……欲張りなの」  
 吐息の合間に言葉を吐きだす。誠二がわずかに目を細めた。
「知ってる。欲張りで、わがままだ」
 口の端に笑いを湛えた誠二の顔が近づいてくる。目を閉じ、またキスをした。 
 年が替わった。新しい年になって、
 あなたが紡ぐはじめての言葉。
 あなたが落とすはじめてのキス。
 あなたがくれるはじめてのやさしさ。
 あなたの「はじめて」が全部、ぜんぶほしい。
 私にとっての「はじめて」は他の誰でもない、あなたから欲しかった。
「沙耶」
 声に、目を開ける。汗ではりついた髪をよけ、誠二の手が頬を包んだ。
「今年もよろしく」
 喉がつまった。鼻の奥が痛い。
 ねえ、知ってる? 私、欲張りで、わがままで、──それからすごく単純なの。
 震える声で、はい、と返事するのがやっとだった。
「あほ。んなことで泣くな」
 言いながら、誠二が動きを再開する。肌と肌がこすれ、唾液と喘ぎ声が混ざり合い、おかしくなってしまいそうなほどに気持ちがよくて、誠二の首にしがみつきながら上げた小さな悲鳴にも似た嬌声は、年が明けても何も変わらない、見慣れた天井に吸い込まれていった。

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