チョコレート × チョコレート

 エレベーターに乗り込むと、すぐにバッグから鏡を取り出した。今日は風が強い。乱れてしまった髪を手でさっと撫でつけ、いつもより念入りに施したメイクが崩れていないことを確認してから鏡を仕舞う。 
 エレベーターに乗っているそのほんの少しの時間さえも煩わしく、増えていく数字を親の仇のごとく睨み付ける。ようやく目的の階に止まったエレベーターの扉がごうん、という音をたてて開くのと同時、身体を捻じ込むようにして飛び出す。
 また風が吹きつけてくる。地上から離れたためか、さっきより冷たい。せっかく整えた髪がまた盛大に煽られる。だが、そんなことはもうすでにどうでもよくなっていた。
 最奥に位置する部屋を前のめりになりながらまっすぐ目指す。九〇一号室。見慣れた扉の前に立ち、深呼吸をひとつ。あまりの興奮のためか、ドアチャイムを押す指が少し震えていて、笑えた。
 もう一度大きく息を吸い込んで、扉が開くのを待つ。が、いつまで待っても反応がない。押し方が悪かったのだろうか。今度はもっと力を込め、長く押してみる。ぴーん、ぽーん、と少し間延びした音が扉の内側からたしかに聞こえた。結局、三度目の呼び出しにも応答はなかった。
 沙耶は諦め、バッグから鍵を取り出した。胸のなかで大きく膨らんでいた何かが、みるみるうちに萎んでいくのがわかった。
 ちりん、と乾いた音が風の音に混じる。鍵を貰ってすぐ、失くさないように、とつけたちいさな鈴だ。
 勝手に開けて入って来ればいいのに。家主からはいつも呆れたように言われるが、沙耶はそれでも毎回しつこく呼び鈴を鳴らし続ける。
 この扉を、彼の手で開けてもらうのが好きだ。彼が扉を開き、どうぞ、と自分の領域(テリトリー)に招き入れてくれるあの瞬間が──
 仕方ない。今日は自分から踏み込んで行くことにし、鍵を開け、室内へと入る。玄関でそれぞれがあさっての方を向いて脱ぎ散らかされたスニーカーを揃えていると、奥から微かに音が聞こえた気がした。廊下を抜け、リビングへと続く扉を開く。
「……誠二、さん?」
 返事の代わりに聞こえてきたのは、少し高い女の子の声だ。一瞬、どきりとする。が、すぐにそれが正面に据えられた大画面テレビからのものだと気づき、ほっと息を吐く。
 画面のなかでは、最近たまにCMなどで目にする若いタレントの女の子がどこか異国の地を散歩中だ。テレビの前のローテーブルの上にはノート型のパソコンが置かれ、その周りには書類が散乱していた。開きっぱなしの画面は電源が落ちて真っ暗だ。そのテーブルの手前、沙耶が入ってきた扉の前に置かれたソファの向こう側を覗き込む。 
 案の定、だった。ソファの座面の影に隠れるようにして横たわった身体。回りこみ、そのすぐそばにしゃがみ込む。
「誠二さん」
 触れた肩は冷え切っていた。当然だ。布団も掛けず、パジャマ代わりのスウェット姿のまま。日中はまだしも、夜はけっこう冷える。
 沙耶はむくむくと湧き上がってきた苛立ちのまま、「誠二さん!」と、もう一度強く身体を揺さぶった。
 んん、というくぐもった声が応える。左腕を枕に横向きだった身体がごろりと上を向いた。ゆっくりと開けられた目が沙耶の姿をとらえ、驚いたように丸くなる。
「……え、あれ? 沙耶、か?」
 寝惚けた声に沙耶の頭は一気に沸騰した。
「私だよ。私以外、誰がいるって思うの」
 湧いた頭とは真逆に、我ながら感心するほど冷静な声が出た。かなりとげとげした嫌味は挟んでしまったが。
「ぴんぽん、鳴らしたのに」
「……わるい、全然気づかなかった」
「またこんなところで転寝して。風邪引いちゃうからダメだっていつも言ってるのに」
「べつに寝るつもりはなかったんだけどな」 
 誠二は大きな欠伸をしながらゆっくりと身体を起こした。
「今、何時だ?」
「……九時」
「なんだ、まだそんなか。えらい早く来たな」
 誠二の驚いたような声に、一気にトーンが下がる。約束は十時だった。
「たまたま、早く目が覚めて、」
 本当はほとんど眠れなくて、うとうとと微睡んだだけで、気がついたら朝になっていた。
「……それで、やることもないし、その、朝ご飯でも作ったげようかと思って」
 これでも我慢したのだ。本当はもっと早くに来たかった。 
「ああ、そうか。ありがたいけど、でも、」
「ん。朝ご飯はナシで、コーヒーね」
 ちょと待ってて、と立ちあがる。リビング横のキッチンに立ち、コーヒーメーカーに粉をセットする。最近、見つけたのだという、近くの珈琲豆専門店のオリジナルブレンドだ。コポコポという音とともに、コーヒーのいい香りが立ちあがる。
 ここ二週間、誠二は残業続きで家には寝に帰るだけだと言っていた。食事もほとんど外で済ませていたのだろう。汚れた食器がシンクに溜まっているということもなく、キッチンは比較的きれいだ。もともと、まめに食事を作るタイプでもない。できないわけではないが、そういったことを好んでする人ではないのだ。
 あーあ、と小さく溜息をつく。
「せっかく、ふるふるで、とろっとろのオムレツ作れるようになったのにな」
「ふうん、それは楽しみだ」
 不意打ちで、しかもすぐ耳元で聞こえてきた声に沙耶は飛び上がる。まったく気配を感じなかった。たぶんわざとだ。
 誠二は自らの手でマグカップにコーヒーをついだ。ひと口飲んで、「うん、やっぱうまいな」とシンクに凭れる。
「おまえの淹れてくれるコーヒーはうまいよ」
「そんなの、誰がやっても同じだし」
 嬉しいくせに、不貞腐れた声を出してしまう自分が恨めしい。
「なんか、怒ってんのか?」
 コーヒーをすすりながら、誠二が尋ねる。顔を洗ってきたのか、前髪が少し濡れている。
「べつに」
「べつに、か」と、誠二は笑った。
 べつに怒ってない。怒ってなんか、ない。
 仕事が忙しいのは仕方のないことだ。仕事と私どっちが大事なの、なんてくだらないことを言うつもりもない。
 ただ、
 ただ少し、──さびしいだけだ。
 お互い仕事が忙しく、今日は久しぶりの休日だ。しかも誠二は明日の日曜日はやっぱり仕事で、会えるのは今日だけ。だから一分一秒無駄にはしたくなかった。
 なのに、久しぶりに会えることを死ぬほど楽しみにしていたのはどうやら自分だけだったようで、やっぱり「重さ」が違うんだな、と思い知らされた。
 そんなの分かってるけどさ、とずぶずぶと沈み込む。沈んだことを知られるのも何だか悔しくて、背中を向ける。
 ほら、と視界に何かが入ってきた。誠二が背後から差し出してきたマグカップだ。ビタミンカラーのストライプ柄のカップ。いっしょに買い物に行ったとき、誠二が選んで買ってくれた。有名な北欧のテーブルウェアブランドのもの。それ以来、沙耶はそのブランドの名がついた食器を少しずつ集めている。
 両手で受け取ると、なみなみとコーヒーを注がれた。いつもならそこに温めたミルクをコーヒーと同量入れるが、すでにその余地はない。
「私、ブラックは、」
「知ってるよ。だけど、ほら、」
 振り返った口に何かが押し込まれる。
「それにはブラックのほうが合うだろ」
 なに、と思うよりはやく、口のなかに甘さが広がった。少し苦味のあるココアパウダーがまぶされた、四角い形状のもの。歯を当てるまでもなく、舌の上で崩れ、溶けだしていく。
「これ、」
 ぱっ、と顔を上げる。 
「ここの、好きだって言ってたろ」
「覚えてて、くれたの?」
 もうずい分前のことになる。郊外にある、自宅を改装したのだという、赤い屋根が目印の、とても小さな洋菓子店。そこの生チョコレートが大好きだということを、他愛もない会話のあいまに挟んだのは。
「たまたま、貰ったんだ」 
「誰に?」
 すかさず訊いてしまう。偏見かもしれないが、これを男の人から、というのはあまり想像がつかない。どちらかというと、女性──いや、若い女性から、のほうがしっくりくる。
「……客から」
 なによ、その間は。心のなかで思わずつっこみを入れる。
「沙耶」
 名前を呼ばれ、カップを取り上げられる。そのまま彼の胸に引き寄せられる。
「外の匂いがすんな」
 沙耶の肩に顔を埋めるようにして、誠二が呟く。
「誠二さんは、……誠二さんの匂いがする」
「オッサンくさいって?」
「そんなこと、言ってないですー」
 鼻を押し付けるようにして、背中に手を回す。洗剤とボディーソープとコーヒーと、そして彼の匂い。もっと、──もっともっと強く抱きしめてほしい。まわした手でぎゅっと服の布地を掴む。あたたかい。
「……誠二さん」
「んー?」
「大好き」
 返事はない。代わりに頭をぽん、と撫でられる。続けて三度、ぽんぽん、と。まるで子供にするように。癇癪をおこした子供を宥めるように。何だかうまく色々なことを誤魔化されたような気もするが、それでもいい。何がどうだって、彼を好きなことには変わりない。
 心臓の音が聞こえる。自分の鼓動と重なって、それからまた少しずつずれ、離れていく。リズムが違うのだ。自分のほうがほんの少しだけ、はやい。そんなことにさえ、さびしさを覚えてしまう。かなりの重症だ。
「大好き」
 口に出して、もう一度。だいすき。──大好き。どうしよう、何度言っても言い足りない。大好き、大好き、大好き。誠二さん、大好き。どれだけ言葉を連ねたところで、本当のところ、十分の一も伝わっていない気がする。
 ふいに肩を押すようにして身体を離され、指先で顎を持ち上げられた。顔が近づいてきて、口づけられる。唇を舐めた誠二は一瞬、顔を離し、甘い、と唸った。
 酒好きの誠二は甘い菓子類がとても苦手だ。嫌悪といっていいレベルで。ケーキ屋などもってのほか。近寄りさえしない。匂いですでにだめらしい。
 舌にはまだチョコレートの甘さが残っている。自ら誠二の唇を割り開き、舌を絡ませる。反射的に逃げようとする身体を、背中から首へと移動させた手で、ぐい、と引き寄せる。逃がさない。絶対に逃がしてなんかやらない。
 誠二の舌は苦い。コーヒーの味がした。──でも、好き。下唇に、ちゅっと吸いつく。まだ甘い舌で前歯に触れて、厚みのある舌先を舌先でくすぐる。苦くて、熱い。あなたが苦手でも、私は好き。私は大好き。ねえ、味わって。私ごと味わって。
 頭を、大きな手のひらで掴まれたと思ったら、押さえるようにして深く深く唇を重ねられた。一気に形勢逆転。舌が呼吸ごと奪われる。呑み込まれる。甘さと苦さが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになった唾液が唇の端からこぼれ落ちる。大好き。誠二さん、大好き。
 ようやく解放された身体は、足に力が入らない。抱きつくというより、凭れるようにして誠二の身体に体重を預ける。
「……ほんとだ。合うね。甘いチョコにブラック」
「あほ。朝っぱらから煽んな。……出かけられなくなるだろ」 
 自分ほどではないにしろ、少し呼吸の乱れた誠二の声に、嬉しくなる。  
「いいよ、べつにそれでも」
 むしろそのほうがいい。足りない。もっと彼を感じたい。いっしょにいたい。離れたくない。
「せっかくの晴れなんだから、それももったいないだろ。明日は雨みたいだし」
「明日のことはどうでもいいよ。どうせ今日しかないんだから」
「明日も休み」 
 不意打ちで、しかも何気なく告げられた言葉に、動きを止める。
「え?」
 顔を上げた沙耶を誠二が見下ろす。
「明日も休み。ていうか、休んだ」
「え? だって仕事は? どうしても抜けられないって」
「打ち合わせは前倒しして……、ま、かなり強引にぶっこんだけど。書類はとりあえず何とかなった。ついさっきメールで送って、終了。インターネットだなんだと、便利な世の中になったもんだな」
 沙耶? と、反応を返さない沙耶の髪を、誠二の大きな手が頭ごと撫でた。
 さっきまで自分を支配していた感情を、すんなり入れ替えることができるほど素直な性格でもなくて、
「……それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
 結局、恨みがましい物言いになってしまう。
「不確定だったからな」
「それでも! ……それでも、もしかしたら休めるかもしれないってことだけでも」
「明日の朝、いや、昼メシのオムレツが楽しみだ」
「泊まるなんて言ってないし」
「そうか、それは残念だ。じゃあ、オムレツは次の楽しみにとっとくとするか」
「………………いじわる」
 言いながら、また強く抱きついた。
 すぐそこに置かれていた袋が目に入る。チョコレートが入っていたと思われる、店のロゴが入った紙袋。その横の小ぶりな箱には石畳のように並べられたチョコレートが収まっていた。だが、その箱を包むための包装紙が見当たらない。あの店は、とても可愛らしいラッピングを無料で施してくれることでも人気がある。──そして見つけた、倒れた紙袋から覗く、レシートと思しき紙片。
(ああ、いい、いい、そのままで。包装とかはべつにいいから)
 そそくさと会計を済ませ、店員から受け取ったレシートを紙袋に突っ込む男の姿が脳裏に浮かぶ。
「誠二……さん、」
 そのあとは、言葉にならなかった。
 何度言葉を連ねても、あなたのくれた甘いチョコレートには敵わない気がして。

 あなたのくれたチョコレート。
 甘くて、甘すぎて、

 涙が出た。

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