そのたった二歩の距離がもどかしくて 1
「ほい」
デスクの上を片付け、帰り支度をしていたときのことだった。
突然、ぬっと目の前に差し出されてきたものがあった。葉書大サイズの小さな箱だ。淡いピンク色の包装紙と、金色の縁取りがされたクリームベージュのリボンで可愛らしくラッピングされている。
「なにこれ?」
斜めに振り返り見上げると、声の主、梶原佑介はそのすっと通った形のよい鼻に僅かに皺を寄せ言った。
「お返し」
「なんの?」
「なんのって、ほら、バレンタインデーの。チョコくれたろ」
沙耶がなかなか受け取ろうとしないことに焦れたのか、言いつつ梶原は箱を無造作に放った。デスクの上に転がった箱を眺めつつ、「ああ、そっか」と呟く。
そっか、今日だったんだ。
そんなことすっかり忘れていた。
いや、せっかく忘れることができていたのに。
「……それはどうも」
知らず恨みがましい口調になってしまっていた。慌てて、「いや、べつにそんなお返しとか気にしなくてもよかったのに」とフォローを入れるも、時すでに遅し、だったようだ。
「んだよ、その言い方。せっかくわざわざ買ってきてやったってのに」
案の定、返す梶原の声には明らかな不機嫌さが滲んだ。
内心、溜息をつく。どうもこの男とは入社したときからウマが合わない。他の同期の男性陣とはそれなりにうまくやっている。だが、この男とは顔を合わせれば喧嘩ばかりだ。幸い、配属された部署が違っていたため、それほど頻繁に顔を合わせることはなかった。──これまでは。
この冬、沙耶の部署で病気による急な退職者が出た。そのため、時期外れではあるが補給要員として回されてきたのが梶原だった。それ以来、これまで以上に何かとつっかかってくるこの男に沙耶はさらなる苦手意識を持つようになっていた。
大体、「わざわざ」ってなんだ。そんなの頼んだ覚えもないというのに。チョコレートをあげたといっても、べつに彼にだけあげたわけではない。
あくまで課内での「恒例行事」として、沙耶を含む女性社員から男性社員全員に配ったものだ。「お返し」は男性社員全員からの、近くのホテルの「ケーキビュッフェ」の招待券女性社員全員分で片がついている。もちろん、個人的に「お返し」を要求した覚えもなければ、貰う謂れもない。
「だから、ありがとうって言ってるでしょ」
「言ってないだろ」
「じゃあ、あ・り・が・と・う! これでいい?」
「なんだよその言い方。全然心がこもってないっての。相変わらず可愛げのない女だな」
「はあ!?」
思わず立ちあがり応酬しかけとところで、「まあまあまあまあ」と仲裁の声が割って入った。仁科あかりだ。彼女もまた沙耶と梶原と同期入社ではあるが、短大卒なので年齢的には沙耶より二つ下となる。
「おふたりさん、相変わらずの仲の良さですけど、まだ他の方たちもいらっしゃるので少し抑えて」
すでに八時を回っているとはいえ、たしかにフロアーにはまだちらほらと人影がある。年度末の決算期のためだ。沙耶もここ数日は定時で上がったことがなく、今日はこれでもまだ早いほうだ。
「仲がいい」という部分には大いに物申したいところだが、たしかにあかりの言うとおりなので手早く支度を済ませ、エレベーターへと向かう。
「大体、頼んだ覚えもないのに無理矢理押し付けておいて、お礼を強制する方がおかしいでしょうが」
「おまえなあ、言うに事欠いて無理矢理押し付けたはないだろ」
「だってそうじゃない」
「こっちに異動になって、おまえには色々と世話になったからその礼のつもりでだな、」
「お礼なんてべつにいらないわよ。それだって仕事のうちだし」
「おまっ……! ほんっとかわいくない女だな」
「は!? なによさっきからかわいくないかわいくないって。なんであんたにそこまで言われなくちゃいけないわけ?」
「かわいくないからかわいくないって言ってんだよ。だいたいそんなだから彼氏にも愛想尽かされるんだよ」
吸い込んだ息でひゅっと喉の奥が鳴ったのと、「梶原さん!」というあかりの声が飛んだのとは、ほぼ同時だった。どちらかというとおっとりとしたタイプであるあかりの、いつにないその声の鋭さに梶原は躊躇ぎ、それからバツが悪そうに俯いた。
梶原は見事に、しかもとてつもなく大きな地雷を踏んでくれた。
やっぱり嫌いだ、この男。
バッグを掴む手にぎゅっと力をこめ、沙耶もまた視線を落とした。狭いエレベーター内に息苦しいほどの沈黙が落ちる。
「いや、その、この前おまえが仁科と話してたのをたまたま耳にして、……その、」
一気に体温が下がった気がした。
最低だ。人の話を立ち聞きするなんて。
耐え切れずに吐露してしまった弱さを、よりによってこいつに聞かれていただなんて。
だけど、とそっと唇を噛む。
──だけどそれよりももっと最低なのは私自身だ。
最初にふっかけたのは自分のほうだ。梶原だってもちろんわざとではなかっただろうに、無理矢理しまい込んでいたものをつつかれ、思わずカッとなった。完全に八つ当たりだ。ほんとうに──本当に、何もかも最低だ。
──そんなだから、彼氏にも愛想尽かされるんだよ。
先週の日曜日、誠二と喧嘩をした。きっかけはなんだったのか思い出せないほど些細なことだった。ただ、ここしばらく続いていた忙しさで溜めに溜め込んでいたストレスが歯止めを効かなくさせてしまった。
いつもは誠二が軽くいなして終わりだ。だが、沙耶と同じように年度末の繁忙期であった誠二もまたうまくストップをかけることができなかったようだ。売り言葉に買い言葉でどんどんエスカレートした喧嘩は結局、収束することはなかった。そのまま持ちこしてしまったのだ。あれから連絡は一度もとっていない。直接の連絡は。
一度、仕事中に誠二からのメッセージが携帯の留守番電話に残っていた。ホワイトデーの日のディナーの約束はなしにしてくれ、と。どうしても仕事の片がつきそうにないから、と。
この前は悪かったな、とメッセージの最後に残された誠二の声と、「わるい」という梶原の今にも消え入りそうな声が重なる。
沙耶は聞こえなかったふりをして完全に無視をきめこんだ。唇を引き結び、扉の上のほうに視線を固定する。今、口を開いたら、気を抜いたらきっと──きっと、もっとも見られたくないものをこの男の前で晒すことになってしまう。
もし、もしも。
もしも仕事が忙しいからというのが嘘だったら?
本当はこんな自分に愛想を尽かして、会うことさえ嫌になったのだとしたら?
怖くて電話をかけ返す勇気も持てなかった。
怖くて怖くて、仕事のことを頭に詰め込めるだけ詰め込んで考えないようにして。
逃げて逃げて逃げまくって。
チーン、と音がしてエレベーターが一階についた。
──だけど、
だけどやっぱりこのままじゃいやだ。
こんなことで終わりだなんていやだ。
扉が開くと同時、一直線に建物の出入り口を目指して飛び出す。
「おい、ちょっと待てよ、一之瀬!」
追い掛けてくる梶原の声を振り切るように、半ば駆けるようにして外へ出た。
会いたい。今すぐ会いたい。会って謝りたい。ごめんなさい。こんな私でごめんなさい。可愛げがなくてごめんなさい。それから、それから──
バッグから携帯を取り出そうとした沙耶はふと、足を止めた。
路肩に見覚えのある大きな車が停まっていた。ちかちかと忙しなく点滅するオレンジ色のハザードランプに浮かび上がった人影。
「誠二……さん?」
声が、震えた。信じられなくて。目の前の光景が信じられなくて、何度も瞬きをくりかえす。
ガードレールに凭れかかり携帯を耳に当てていた誠二は、歩道に立ち竦む沙耶に気が付き、携帯を持つ手を下ろした。
足が、動かない。すぐにでも駆け寄りたいのに、アスファルトに縫い付けられでもしたかのようにぴくりとも動かない。誠二がゆっくりと歩み寄ってくる。そして立ち止まった。二歩ぶんほどあいだを空けて。
「あほ。電話くらい出ろ」
携帯を持った手で額を軽く小突かれる。
「……待ってて、くれたの?」
「いくら電話しても出ないからな」
「いつから?」
誠二は、さあ、とかすかに首を傾げ、「ほんの少し前くらいかな」と静かに言った。
うそ。一瞬ではあったが、額に触れた誠二の指はとても冷たかった。
「仕事終わってすぐに電話かけたけど出ないし、もう帰ったのかとおまえんちまで車走らせたけど明かりはついてないし、それでまだ仕事してんのかなって、」
「……それでわざわざ来てくれたの? わ、私を、探しに来てくれたの?」
はは、とおかしそうに誠二が笑う。
「ほかに誰がいる」
「私はまだ、」
声が震えてしまう。目の奥のほうが痺れて、視界が滲んでいく。
「私はまだ、……あなたの彼女でいていいの?」
一瞬、誠二の瞳の奥のほうが暗くなった気がした。
「辞めたいのか?」
逆に質問を返され、沙耶は首を振った。それこそ首の筋を痛めてしまうんではないかと思うほどに力いっぱい。
「沙耶」
ただ、名前を呼ばれただけで、冷えていた身体が温かくなって。ふたりのあいだに横たわる、そのたった二歩の距離がもどかしくて。
沙耶は飛びつくようにして誠二に抱きついた。背中に、手が置かれる。いたわるようにそっと。
誠二のすっかり冷え切ったジャケットに触れた手から、押し付けた頬から、じわりじわりと体温が奪われていく。それでもそのむこうにたしかな温かさをかんじて、それをもっと感じたくて、誠二の背中に回した手にあらんかぎりの力を込める。
「ちょっと待て」
やんわりと肩を押され、ふと我に返る。人の往来もまだまだ激しい時間帯だ。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、そうじゃなくて、その……俺、たぶん臭いぞ」
「え?」
思ってもみない言葉に、聞き間違えかと思い、顔を上げる。
「じつは二日ほど風呂入ってない。帰るひまなくて、会社に泊まり込んだからな」
言いつつ、誠二が身体を離そうとする。だが、沙耶はそれを許さなかった。
「いい」
というより、嫌だ。
誠二のジャケットを掴んで抵抗する。たった二歩でも遠いのに。喧嘩別れをしてからのこの一週間は気が遠くなるほどだったというのに。小さく溜息をつき、沙耶の肩を押していた誠二の力が緩んだ。再び、回された手が背中を、頭を、ゆっくりと撫でる。
「この前はわるかった」
「……私も。ごめん。ごめんなさい」
「せっかくのディナーも、」
「いいよ、そんなの」
そんなこと、どうでもいい。ただ、
──自惚れても、いいだろうか。
泊まり込みで仕事を片付けた。かなりの無理をして。
それは今日、私に会いに来るためだと。私のためにしたことだと。
自惚れてもいいだろうか。
私は、自分が考えるよりもずっと、あなたに想われていると。

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