「──…おーい、耀。耀くーん、よーお、くーん」
 どこか遠くで声が聞こえる。自分の名前を呼ぶ声が。
 うるさい、ちょうど今いいところだったんだ。俺はそのしつこい声から逃げるように身体の向きを変えた。にも関わらずわざわざ追いかけてきた声は、今度は耳元でわーわーとがなりたて始めた。
「……おい、耀、てめー、起きてんだろ」
 起きてないっつーの。俺は気持ちよく昼寝中で、いい夢見てたんだ。邪魔すんなってんだ。
 声に背中を向け、完全に無視を決めこむ。と、いきなりがつん、と太腿の裏側に衝撃がきた。不意打ちをくらった俺はあまりの痛みに言葉を失い、太腿を抱え込んだ。
 痛みを何とか消化したところで飛び起きた勢いのままに声の主に掴みかかるも、あっさりと躱される。虚しく空を掴んだ俺はギリ、と歯噛みした。
「康之、てめー」
 俺の渾身の睨みも軽く流し、教室から持ってきたらしい俺のバッグを投げて寄越したのは、友人である武本康之だった。難なくバッグをキャッチする。ほとんどの教科書を机の中に置いて帰るという目下やる気なし継続中の俺のバッグは軽いものだ。
「なあ、部活行こうぜ」
「だーかーら、いかねーって」
 俺はあえて面倒くささを前面に押し出しながら言った。康之が小さく溜息をこぼす。
「授業すっ飛ばした挙句、部活までサボる気かよ」  
「うるせーな。こちとら寝不足なんだよ」
 欠伸をしながら立ち上がり、マット代わりに敷いていた段ボールを元の位置に立て掛ける。校舎の屋上へと続く階段の終わり部分、物置スペースになっているここは最近見つけた格好の昼寝場所だ。夏だというのに、なぜかここだけは空気が冷えていて心地がいい。
「勉強するわけでもあるまいし、毎日毎晩寝不足って一体何してんだか」
「ばっか。お年頃の男子高校生がすることっつったら"ナニ”以外、何があるってんだよ」
「アホか」
 アホさ、と笑うと、康之もまた「アホだな」と返してくる。だが、それがまた真面目くさった表情で吐き出された「アホだな」だったことで、俺は何とも面白くない。
「ま、べつにいーけど」
 僅かに肩をすくめ、康之は窓の外へと視線を投げた。校舎をひとつまたいだ先に、グラウンドが見える。授業が終わり、校舎からは生徒達が一斉に吐き出されていた。
「なあ、部活……」
「だから行かねーって。めんどくせーし」
「だけどそろそろちゃんと顔出さないと、マジでレギュラー下ろされるぞ」
 そんなこと、言われるまでもなく分かっていた。
 うちの高校のバスケ部は県内でもかなりの強豪校だ。わざわざ県外から来るヤツも多く、選手層も厚い。やる気のない選手など、よっぽど実力があるというわけでもなければすぐにレギュラー落ちさせられるだろう。代わりはいくらでもいるのだ。
「……ま、べつに。元々、そんな本気でレギュラー取りに行ったわけじゃねーし」
 僅かな間のあと、そうか、と小さく呟いた康之の顔を俺は見ることができなかった。
 ヤツとの付き合いは幼稚園からだから、もうずい分と長い。家も近く、小・中・高と同じ。ほとんど腐れ縁といった関係である康之は友人のなかでも一番身近で、おそらく他の誰よりも俺のことを解っているであろう存在だ。
 色々と聡いヤツのことだ。気づいていないはずはないのだ。まだ言っていない、いや、「話せていない」色々なことを。
 身体を階段の手摺に預け、手持ち無沙汰に制服のズボンのポケットに手を突っ込む。空気が重い。沈黙が──重い。
 こういう「重たさ」は苦手だ。だが、軽口で逃げていい場面でもない。それは分かる。宙を睨み、言葉を探す。探すが、何も見つからない。あるのは、蜘蛛の巣の張った薄汚れた天井だけだ。
 やがて、見かねたように康之が口を開いた。
「ちゃんとけじめ、つけろよ」
 ハッと横を見た。康之は俺と視線を合わせようとはしなかった。前を向いたまま、言葉を繋ぐ。
「辞めるなら辞めるで、さ。中途半端なことすんな」
 そして、「らしくねーよ」と苦々しげに言葉を吐いた。
 俺はその横顔をじっと眺め、そして少しほっとした。そこに恐れたものは何も見えなかったから。蔑みだとか、呆れだとか、そういった類のもの。
「……ああ、そうだな」
 呟いた俺の背中を、康之が無言のままに叩いた。ばし、と小気味いい音が響き渡る。さっき太腿を蹴られたときほどの勢いはない。──それなのに、叩かれた背中はいつまでもじくじくと痛んだ。
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