「さっきの、えーと、武田君だっけ」  
 康之と入れ替わりに階段を上がってきた秋月が、手に持っていたペットボトルを差し出しながら尋ねる。
「武本、な」
「ああ、そっか。武本君……ね」
 秋月は確認するように呟いたが、大して興味はなさそうだった。
 いつもそうだ。彼女にとって自分以外の人間、要するに他者はいつだって曖昧な存在だった。彼女の目は、彼女自身が興味を覚えたものしか映さない。
 初めて俺が彼女を「彼女」として認識したあの時。彼女の目に映っていたのは、一本の白いバーだった。彼女が越えなくてはならない高さ。彼女が自分自身で定めたハードル。 だが、まっすぐそれだけを見据えていたはずの彼女は今、濃い霧のなかに立っていた。彼女の視界を奪った霧は彼女をもうずい分と長いあいだ、そこに閉じ込めてしまっている。
 俺と秋月はふたりして屋上へ出た。軋んで嫌な音をたてる扉を開けた途端、息苦しさを覚えるほどの熱気が襲いくる。遮るものの何もない屋上のコンクリート床は日中の熱をたっぷりと溜め込んでいた。
 扉がはめ込まれたコンクリート壁の裏手へと回り、ほんの気休め程度にしかならないほどではあったが小さな影を見つけ、そこに並んで腰を下ろした。
 秋月は汗をかいたペットボトルを頬に当てた。きもちいい、と瞑った目元に長い睫が影を落とす。潔いほどまでに短くカットされた髪はぬるい風にさらされ、ふわりふわりと踊っていた。
 ふと思い立ち、彼女の剥き出しになっている首筋に自分のペットボトルを押し当てる。わっ、とこちらの予想を遥かに上回る勢いで秋月の身体が跳ねた。
「ちょちょちょ、ちょっと!」  
 首元を押さえて身体を引いた彼女の顔は、こんがりと日に灼けたその上からでも分かるほどに赤くなっていた。ふだんあまり感情を表に出さない彼女の思わぬ反応を引きだせたことに対する満足感と、誰に対するものかも分からない、奇妙な優越感を覚える。
 ちょっと! と、彼女の口調を真似てからかうと、秋月はますます顔を赤くして腕を振り上げた。だが、その腕が俺に向かって振り下ろされることはなく、彼女はふっと身体の力を抜くと、抱え込んだ足に顔を埋めた。
 丈の短い、ネイビーとピンクのチェックのスカートから、よく引き締まった脚がのぞく。
「パンツ、見えるぞ」
 視線を逸らしつつ言うと、「いいよ、べつに。減るもんじゃなし」とくぐもった声が答えた。
「俺が困るから隠せ」
 一瞬の沈黙。秋月は顔を上げると、すとん、とコンクリートの床に両脚を落としたあと、太腿のあいだにぐい、とスカートを捻じ込んだ。
「どうもお見苦しいものをお見せしまして」
 お見苦しくないから困るんだよ。喉元まで出かかった言葉は無理矢理飲み下した。何だかよけいなことまでぼろぼろと零してしまいそうだ。
 俺はペットボトルのキャップを捻って開け、一気に煽った。いくぶん水分が不足気味だった身体に、スポーツドリンクがぐんぐんと染みいっていく気がする。
 一息にほとんど飲み干してしまってから横目で秋月を見る。彼女もまた豪快にミネラルウォーターを煽っていた。逸らされた首筋は汗に濡れていた。水の粒となった汗はゆっくりと肌の上を滑り、ボタンがひとつ開けられたブラウスのあいまに消えていく。その行き先を、彼女の衣服に隠された部分を想像する。滑らかな肌の曲線を。
 無駄な脂肪の一切が削ぎ落とされた、細くしなやかな、均整のとれた身体。一見、少年のようにも見えるその肢体は、だがやはり男のそれとは明らかに異質なものだ。
 細い骨は少しでも力を込めれば、簡単に折れてしまいそうだった。抱き締めたらどんな感触だろうか。肌は、どんな手触りだろうか。髪は──
「なに?」
 秋月の咎めるような声に、ハッと我に返る。俺は「いや、べつに」と、ほんの少し残っていたスポーツドリンクを最後まで飲み切った。視線を上げると、大きな入道雲が目に入った。いくつもの重たい綿の塊を積み上げたような、まさに夏の雲だ。
「そういえばさ、最近、」
「うん?」
「……最近、その」
 言葉をつまらせた俺を、秋月が不思議そうに見た。
「いや、その、最近帰り道によく見かける犬がすっげー間抜けなヤツでさ、」
「えー、なになに?」
 秋月が身を乗り出してくる。ちがう。言いたかったのはこんなことじゃない。だが、俺はきのう仕入れたばかりのネタを披露しにかかる。
 彼女が猫より犬が好きだと知ったのは少し前のことだ。
 アイスクリームはチョコよりバニラが好きだと知ったのはつい昨日のこと。
 滅多に笑わない彼女の笑顔が、心臓が止まるかと思うくらいかわいいと知ったのはずい分前。
 その笑顔を見るために、多少バカすることなんかワケもなかった。
 きっとそんなこと、誰も知らない。俺だけが知っている彼女。俺だけの特権。
 だから気になった。ずっと、気になっていた。
 俺はさっき無理矢理飲み込んだ言葉を、相も変わらず腹のなかで持て余していた。

 ──最近、よく沼野正輝といっしょにいるのはどうしてだ?
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