『おーい、耀。今日、来るんだろ。皆、待ってんだぞ。とりあえず今一次会終わって店移るからさ、来るんならそっち来いよ。てか、絶対来い! 住所は──」 
 酔っているためだろう。がなりたてるような声で留守電に残されていたメッセージを聞き終えた俺は社屋を出たところで、さて、と一旦足を止めた。
 残業が確定した時点で、同窓会への参加意欲はすでに半分くらい削がれていた。 
 飛び込みで入った仕事はやっつけで終わらせるわけにはいかないような、なかなかに濃い内容のものだった。
 これはひょっとしたらマズいかも、との予想は見事に当たり、そろそろ一次会は終わっているだろう時間帯まで食い込んだところで、意欲はさらに二分の一になっていた。
 だが、会場として指示された住所が偶然にもここからわりと近かったことで、ほぼ不参加に傾いていたベクトルはここへきてまた方向を変えようとしている。
 俺はそれほど優柔不断なタイプではない。たいてい即断即決で、物事を決めるのに迷った記憶はあまりないし、それを外すこともあまりない。
 ただ、この時ばかりは決めかねていた。行くべきか。行かざるべきか。
 結局、決めきらないままにとりあえず歩き出す。迷いが、歩くスピードを次第に鈍らせる。自宅への道と、二次会会場への道との分岐点まであと少し、というところまで来たときだった。
「なあ、どうする?」
 耳に飛び込んできた声に何気なく視線を巡らせる。
「かなりいいんじゃね。おまえ、声掛けろよ」
 具合が悪いのか、歩道の端で蹲った若い女に男が二人、まさに近づこうとしていたところだった。そこまでスレた感じではないものの、服装といい、口調といい、そこはかとない軽薄さを漂わせた若い二人組の男だ。
 考えるより先に体が動いていた。ずい、と二人組の男と女のあいだに割って入るようにして女のほうに「おい」と、声をかける。背後で舌打ちと共に男たちの気配が遠のいた。
「大丈夫か?」 
 差し出した俺の手に、おずおずと躊躇いがちに重ねられた、その手のやわらかさに思わずどきりと心臓が脈打った。力を入れすぎないように気をつけながら、引っ張り上げる。
 そのときに俺の手が掴み、引き寄せたもの。
 ──その正体に気が付いたのは、それから少し経ってからのことだ。

   ◇ ◇ ◇

 とーんとーん、と軽く跳躍した身体にぐっと力がこもったのが分かった。直後、足が地面を蹴る。ゆるやかに、やがて勢いを増した身体はふわりと宙を舞い、ぐっと逸らされたしなやかな肢体はぱすん、とマットの上に落ちた。バーは今度は落ちずにちゃんと留まったままだ。
 彼女はむくりと起き上がると、マーカーを置いたスタートラインへと戻る。そしてリピート。誰もいなくなったグラウンドでひとり、彼女はかれこれ一時間も同じことを続けている。
 とはいえ、俺が彼女に気がついたのが一時間前だから、本当はもっと長い時間のはずだ。
 校舎の二階の窓からそれを眺めていた俺には、彼女には見えないずっと遠くの空が見えていた。そろそろタイムリミットかもしれない。
「なあ!」
 彼女がマットの上にダイブしたタイミングで声をかける。だが、どうやら声は届かなかったらしい。今度は落ちてしまったバーを拾い上げようとしていた彼女に向かって、さらに大きな声を張り上げる。
「なあ、あんた!」
 声がグラウンド中に響き渡った。彼女がゆっくりと振り返った。声の出処を探す彼女に、手を振り合図を送る。
「雨が来る。もうそろそろやめたほうがいい!」
 遠く、山の稜線から湧き上がった黒い雲を、窓から身を乗り出すようにして指さす。彼女はゆっくりと空を見、そして手に持っていたバーを地面に置いた。
 てっきり片づけをするのだとばかり思っていた。だが、マットの両サイドに立つ二本の支柱をそれぞれ何やらいじっていた彼女はバーを拾い上げると、再びセットした。
 顔を上げた彼女がまた振り返る。そして、俺に向かって手を振った。俺もまた釣られるようにして手をあげる。と、彼女はマーカーの位置を少し後ろへとずらした。
 そこではじめて気がついた。彼女がバーの位置をさらに上げたのだということに。
 彼女は両脇に垂らした手をぶらぶらと振ると、地面に爪先をたて、足首をぐるりと捏ねた。すう、と大きく息を吸い込んだ彼女の息遣いがすぐ耳元で聞こえたような気がした。彼女は駆け出した。助走のスピードがぐん、と伸び、そして──
inserted by FC2 system