雨が降っていた。とても静かな、雨。
 けれど雨の匂いはしない。べつの匂いが邪魔をしているから。
 重く密な線香の匂い。奥にひっそりと腐臭を隠したその匂いが、私は昔から嫌いだった。
 髪に、制服に、皮膚の中にまで浸み込んだ匂いが少しずつ私を浸食していく。
 雨の中、たくさんの黒い傘が群れを、列をなしていた。
 このたびは突然のことで本当に驚きました──
 このたびはご愁傷様でございます──
 胸中お察しいたします──
 次々と並べられる「お悔やみ」の言葉に、ほとんど条件反射的に頭を下げる。 
 べったりとした黒い服を身に纏う彼らは皆一様に鬱々とした表情をしている。
 あれ、「うつうつ」ってどんな漢字だったっけ? そんなどうでもいいようなことを考えながらまた深々と身体を折る。
 雨の中、わざわざお越し頂きありがとうございました。生前は大変お世話になり──
 名前はおろか、会ったことさえないような人たちに頭を下げる。何度も、何度も。まるでグラスの水を啜るしか能のない水飲み鳥のおもちゃのようだ。
 いくつもの黒い革靴、黒いパンプスが立ち止まり、通り過ぎていった。
 ちょうど六十足まで数えたところだった。
 白いスニーカーが視界の端からやってきた。目の前で立ち止まったそのスニーカーはいちだんとサイズが大きい。畳んだ傘の先からパタパタと滴り落ちた水が靴先を濡らす。
 少しくたびれたそのスニーカーの、靴ひもにとんだ泥ハネを何となく眺めていた私は、お決まりの文言が降ってこないのを不思議に思い、顔を上げた。
 そこにいたのはクラスメイトの男の子だった。新学期が始まって二か月。まだまともに言葉を交わしたことさえない、いわゆる顔見知り程度のクラスメイト。
 大変だったな。
 彼はぽつりと言った。誰ひとり見ようとはしなかった私の目をまっすぐ見ながら。低く、濡れた声だった。
 私もまた彼の目を見る。瞳孔と虹彩の区別もつかないくらい真っ黒に塗りつぶしたような濃い瞳。まるで黒曜石みたいなその目もまた少し濡れているように見えた。
 やがて、絡んだ視線を断ち切るように深々と頭を下げたあと、彼は他の弔問客に倣って列へと並んだ。
 大変だったな。私もまたお辞儀を返しながらそっと呟いてみる。と、それはじわじわと、雨水が土にしみ込むようにゆっくりと深く深く入ってきた。
 じんわりとお腹の奥の方が熱くなる。なんだろう、これ。熱をもった部分をそっと手で押さえてみる。ふいに何かがするすると音をたててほどけていくのを感じた。
 そして私はふと思ったのだ。
 ああ、そうか。父はもうどこにもいないのだ、と。
 彼の背中を探した。瞳を覆う水の膜越しに見る、制服に包まれた背中。その大きな背中の輪郭がぼんやりと滲む。ちゃんと見たくて瞬きをすると、水の膜が破れた。頬を温かいものが伝う。
 私は泣いていた。
 それは父が死んだという報せを受けたあと、私がはじめて流した涙だった。

 そして長い長い雨の季節が始まった。

   ◇ ◇ ◇

 父が死んだ日から雨はずっと降り続いていた。
 その年は例年より少し早く梅雨入りしたようだ。

 六月に入ってすぐのことだ。人の気配のなくなった教室。窓からぼんやりと外を眺めていた私は、背後に気配を感じた。
「雨、だな」 
 その声の主が未だに教室に残っていたことに少し驚きを覚えながら、私は答えた。
「うん、まあ、梅雨だしね」
 まさき君は椅子をひとつ引き寄せ、私の隣に座った。
 窓の桟に両腕を置き、その上に顎をのせる。私は立ち、彼は座って、ふたりで窓の外を眺めた。
 朝から降り続く雨はグラウンドを大きな池に変えていた。そこにいつも溢れているはずの音はない。野球部のランニングの掛け声も、生徒達から「鬼コーチ」と恐れられているサッカー部顧問の怒号も、何もかも。
 ただ雨の音がするだけ。世界を濡らす雨の音が。 
 ガラスの表面に幾筋も幾筋もあとをつけながら水が滑り落ちていく。雨に烟る世界は吸い込まれるように静かで、だから少し怖いような気もしたけれど。
 私はちら、と横を見る。今、隣には彼がいた。大きなその身体は私をここにしっかりと繋ぎとめてくれる。──だから安心した。
 雨の街。この世界には私たちふたりだけ。そんな錯覚に陥る。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。やがて少しぶっきらぼうな声が言った。
「いつか……止むし」
 ゆっくりと顔を声のほうに向ける。彼は視線を前に向けたままだ。
「雨はいつか止む」
「……うん」
「はやく晴れたら……いいな」
 不思議だ。彼の言葉は、いつも私のなかの何かをやさしくほどく。
 私はまた、うん、と頷いた。 
 そのあともたびたび私とまさき君はそうして雨を眺めた。
 共有した時間が長くなればなるほど、まさき君は私のなかでどんどんと大きくなっていった。存在感を増していった。
 いつもはとても長く感じる雨の季節のおわりが、その年はとても早く感じられた。
 梅雨が明けると、今度はしゃわしゃわと煩い蝉の声に、肌に纏わりつく重くねっとりとした空気に顔を顰めながら話をした。他愛もない話だ。 
 夏の空の青さはとても眩しかった。そして、長雨でべちゃべちゃにぬかるんだグラウンドも、私の心のなかも、あっという間に乾かしてしまうほどに暑かった。
 ふたりで分け合って飲んだ炭酸がぱちぱちと喉の奥ではじける感覚、ほんの少し触れただけの指先に灯った熱、囁き合った言葉の甘酸っぱさ。その何もかもがきらきらと輝いて、ほんの少しくすぐったくて。
 彼といると笑顔でいられた。彼といると、雨は止んだ。

 ──だけど私は、いつも笑顔をくれた彼のこころを言葉ひとつで踏み躙った。
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