父が亡くなってから生活のために復職した母は何かに追い立てられるように、あるいは何かから逃げるように仕事に没頭していた。そして寝酒に、と飲み始めたアルコールの量は日を追うごとに少しずつ少しずつ増えていった。
あの頃、母はいつも苛立っていた。やがてそれは目に見える形で顕れるようになった。
月曜日には父のお気に入りだった小豆色のマグカップが割れた。水曜日には新婚旅行で買ったのだという夫婦茶碗が割れた。木曜日に父が大切にしていた観葉植物の鉢が倒れ、日曜日には私が料理本片手に作った不格好なハンバーグが床の上にぶちまけられた。
家の中の色々なものが少しずつ壊れていき、その順番が今度は「私」へと回ってくるのにそう時間はかからなかった。さすがに手をあげられることはなかった。ただ、少しきつめの言葉が飛んでくるだけ。それはときに鉛のように重かったりはしたけれど。
だけど、大丈夫。私はちょっとやそっとで壊れはしない。これ以上家のなかの物が、父との思い出が、父がいた痕跡が壊れていくのを見るよりよっぽどマシだと思った。
ただ、あの頃、私の心はやっぱり少し疲れていたのだと思う。だからほんのちょっぴり羨ましかった。いつも明るい、太陽のようなまさき君のことがほんのちょっぴり眩しくて……。
──いいね、まさき君は。いつも楽しそうで。
あの時、心がささくれだった私が放った言葉の、その奥にひっそりと潜ませたものに彼はきっと気がついていたはずだ。
だけど彼は、何も言わなかった。気がつかないふりをした。
それはきっと私のため。私を、守るため。
私の言葉はきっと彼をひどく傷つけた。だけどその傷を私に見せてしまったら、私もまた同じ傷を負うであろうことを、彼はきっと知っていたのだ。
だから彼は隠した。
私がつけてしまった傷を、私から隠した。
まさき君はそういう人だった。彼は私のために嘘をつき、そして私もまた、その嘘に騙されたふりをした。
へへ、いいだろ。と明るく笑った彼のやさしさに、私は甘えてしまったのだ。
彼の母親が入院しているのだと人づてに聞いたのはそれから少ししてからだ。
知らなかった。そんなの何も知らなかった。
だって、まさき君はいつも笑ってて、いつだってすごく楽しそうで、くだらない冗談でいつも私を笑わせてくれて。
謝らなくちゃ。ひどいこと言ったって、謝らなくちゃ。
だけど、まさき君は私の前から姿を消した。
私にひと言も告げずに、私に謝る機会さえ与えてくれずに、突然──消えた。
彼の母親が亡くなったと聞いたのは、それから半年後のことだ。
もうずっと長いあいだ入退院を繰り返していて、彼の転校は母親の転院に伴うものだったらしい。
──雨はいつか止む。
彼はあの時、一体どんな気持ちでその言葉を私にくれたのだろう。
◇ ◇ ◇
頬に何かを感じた。あたたかい。目を開くと、離れていく手が見えた。
「……ごめん。なんか、つらそうだったから」
どうやら眠ってしまっていたらしい。しかも泣きながら。手で触れた頬は濡れていた。恥ずかしさに思わずその手で顔を覆う。
「こっちこそ、ごめんね」
何をやってるんだろう、私は。
酔っ払って、拾ってもらって、勝手にベッドに潜り込んだあげくに寝てしまい、さらには泣くとか。
もうなんというか、何もかもあり得ない。本当に泣きたくなった。
あまりの情けなさに、何をどうしたらいいのかも分からず横向きの姿勢のまま身を固くしていると、「ちょっとごめん」と、温もりと声が離れた。
「……もしもし」
どうやら電話がかかってきていたらしい。
「おー、すっげー、久しぶりだな」
彼の声が右から左へと移動していく。その声を何となく耳で追いながら目を瞑ると、瞼の裏にはなぜか一面の青が広がっていた。
ああ、これはあれだ。いつか校舎の窓から見た空の青。まさき君といっしょに眺めた空の色。
「は?」
ひと際大きな声に、閉じていた目を思わず開ける。振り返ると、彼は携帯を片手にキッチンのシンクに腰を掛けていた。俯きかげんの彼の顔はちょうど影になっていてよく見えない。
「結婚って、おまえの話だったのか」
彼が長い前髪の隙間からちらっとこちらを見たような気がした。
「え? ちょっ、待てよ。取りやめって、それってどういう……?」
上ずった声で言い、彼がシンクから腰を浮かせたところで、私はまた、ゆっくりと目を閉じた。
──ねえ、まさき君。
細い糸を手繰り寄せるようにして、遠い記憶のなかに彼の姿を探す。
──ごめんね。
あのとき、そのたったひと言が、どうして言えなかったのだろう。
赦して、なんて言えないけれど、
だけど、
だけどせめてあなたのために祈りたい。
私の心に傘を差し掛けてくれたあなたの、
私に雨の終わりを見せてくれたあなたの、
あなたの頭上が青く澄んでいますように。
──あなたのなかの雨が、どうか止んでいますように。