「……っ」
 胃がせりあがってくるような感覚を覚え、口を押える。と、「ちょい待ち、もう少しだから」と、どこか遠くのほうで声が聞こえた。
 何だか雲の上にいるようにふわふわしていて、視界は霞がかかっているかのようにぼんやりとしている。力の入らない体はぐんにゃりとひどく重く、まるで自分のものではないみたいだ。
 何度か目をしばたたかせると、うっすらと何かが見えた。靴だ。ピカピカの靴。ああ、そうだ。あれは先週買ったばかりのエナメルパンプス。きれいなターコイズブルーのと迷って結局、無難なベージュ色にした。これはこれできれいな色だけど、やっぱり何だかちょっと物足りない。
 あっちにすればよかったかな。
 よく晴れた空の色。まさき君の色をした靴。
 そして目の前の無難なパンプスはあっちへふらり、こっちへふらり、と変な動きをしている。
 こら、まっすぐ歩け。
 心のなかで呟いたつもりだった言葉は、どうやら勝手に外へと出ていってしまっていたらしい。
「ごめん」
 今度はすぐ隣でさっきの声がした。少し笑いを含んだ声。なんだろう、この声。どこかで聞いた気がする。
 望遠鏡を覗いているみたいに狭かった視野が徐々に広がってきて、私は自分のパンプスとは別の靴の存在に気がついた。私のよりはるかに大きい、白地の、サイドに黒いラインの入ったスニーカー。
「大丈夫か? あともうちょっとだから辛抱しろよ」
 私のよたった足とは違うしっかりとした足取り。それと同じように、落ち着いた男の人の声が言った。
 変な言い方だけれど、そこへきてようやく自分が「酔ってる」ことに気がついた私は、やはり相当酔いが回っているらしい。
 酎ハイ五杯あたりくらいから意識が切れ切れになり始めた。まさかたったそれだけで潰れてしまうとは自分でも思ってもみなかった。ふだんならもう少しイケるはずだ。
 要するに、突然知らされた「まさき君の結婚」が思った以上にダメージとなっていたらしい。精神的にも肉体的にも限界が見えていた私は、久しぶりに会った級友たちとの別れにほんの少しの名残惜しさを感じつつも二次会はパスすることにした。
 送っていく、という男の子の親切な申し出は丁重にお断りした。けれど、数メートル歩いたところで私はそのことを早々に後悔する羽目になった。身体がまったくいうことをきかなくなってしまったのだ。
(おい、大丈夫か?)
 思わず道端にうずくまった私の視界に入ってきたのは大きな男物のスニーカーだった。ほら、と差し出された手。
(大丈夫じゃ……ないかも)
 答えながらも迷いはあった。けれど結局、私はその大きな手に自分の身を委ねた。もちろん「その後」の展開も織り込んだ上で。
 そういうベタな展開を望んだのは──私自身だ。


 途中、何度も意識を飛ばしそうになりながら連れてこられたのは、駅からほど近いマンションの一室だった。それほど散らかってはいない、どちらかというと殺風景といってもいいほどの、家具も、物も少ない部屋。
 足をもつれさせながら、部屋の一番奥のベッドの上にダイブするようにして倒れ込む。自分のものとはちがう、男の人の匂いにどきりと心臓が波打った。
「大丈夫か? 水、飲むか?」
 柔らかな布団に半ば顔を埋めるようにして頷く。足音が遠ざかり、棚からグラスを出す音、蛇口をひねる音、それから水がシンクを叩く音がしはじめた。水の音。雨の──音。
 ベッドが鈍く軋み、僅かに体が傾く。彼が隣へ座ったのだ。せっかく持って来てもらったのに、指一本動かすことさえひどく億劫で「ごめん、水、やっぱりあとで、もらう」と切れ切れに言葉を吐く。
「ん、ああ。じゃあとりあえずここ、置いとくから」
「ありがとう」 
「なんかいるもん、ある?」
「ううん、大丈夫」
 言いつつ目の前の壁に目をやると、そこに小さなシミのような汚れを見つけた。蟻くらいのサイズのその小さなシミを眺めながら尋ねる。
「ねえ、恋人……は?」
 相手は初対面の人だというのにあまりに不躾な質問だったな、と言ったあとで思う。
 いや、と短く返事があった。幸い、とくに気分を害した様子はない。
 しばらくして、「そっちは?」と訊かれる。
「私は、」
 じわりと口のなかに苦いものが広がった。唾液といっしょに飲み下し、再び口を開く。
「……私はついさっき失恋したばっか」
 少し間があってから「へえ」と返ってきた。
「じゃあもしかしてヤケ酒ってやつ?」
 私はフフ、と笑って頷く。
「そう。正解」
「相手は……どんなやつ?」
 もし訊いてもよければ、と付け加えられた言葉に、何だか泣きたくなった。
「そう、だなぁ」
 脳裏に広がったイメージをそのまま言葉にして出す。
「空……みたいな人」
 アルコールが入っていなければ、とても言えないような恥ずかしい台詞。
「へえ、空、ね」  
「うん」
 そう。まるで雨上がりの夏の空のような──
「ずっと……」
 私はその先の言葉を何となく飲み込んだ。
 大学に入り、二人の男の子と付き合った。
 一人は友人の紹介で、けれどたった数週間で終わった。もう一人は街で声をかけてきた人、いわゆるナンパだ。少しまさき君に雰囲気が似ていた。だけどその人とも一か月ともたなかった。
 社会人になってからは、そういう艶めいた話は一切ない。というよりは、なるべくそういったことの遠くに身を置くようにしてきた。
「今日、高校卒業して以来、初めての同窓会だったの。ダメもとで、……でも、ちゃんと自分の気持ちにケリつけたくて」
 じゃないと、前へ進めない。そう思った。
「うん」
「……でも、もうじき、」
 声が、震えた。
「もうじき、結婚、するんだって」
 ああ、だめだ。泣きそう。
「だから、ね、……ダメ、だった。本当はね、当たって……砕けて、それからまた新しい自分を作り上げよう……そう思ってた。だけど結局、何も言えなくて、砕けることさえできなくて、」
 そっと鼻を啜ると、「そっか」と声が落ちてきた。
「奇遇だな」
 奇遇? どういう意味だろう?
 瞼が重い。壁に張り付いた蟻が一匹から二匹、二匹から三匹、と、どんどん増えていく。
「俺もだよ。じつは俺も失恋したばっか」
「そっ……か。うまく、いかないもんだね」
「だな」 
 酔った私の頭と舌は、うまく言葉を紡ぐことができない。それでも彼はやさしく私の相手をしてくれる。
 名前も知らない、見ず知らずの、しかも酔いにまかせて大して面白味もない失恋話まで披露してしまうようなだらしない女の相手を。
 おかしかった。誰にも打ち明けたことのない気持ちを、こんなついさっき会ったばかりの人に曝け出してしまっていることが。
「あなた、とてもやさしいのに」
 彼はハハ、とおかしそうに笑った。
「べつにやさしかないさ」
 彼の声は少し、まさき君の声に似ているような気がした。もうよく覚えてはいないのだけれど。
 頭の中で何度再生を繰り返したかしれない彼と過ごした日々。とうに擦り切れてしまった彼の声は、もうとても曖昧になってしまっている。
 だけど、きらきらと輝いて。ほんの少しのあいだだったけれど、彼と過ごした時間は私にとってはかけがえのない宝物だ。
 彼の笑顔は今でも鮮明に思い出せる。青い空のような。とても眩しい。吸い込まれてしまいそうな青。
 けれどそれもいずれは色褪せていくのだろう。
 時の流れとともにさらさらと砂のように、他の記憶に紛れ、そして静かに降り積もっていくのだ。
 もう、取り出さないほうがいい。
 取り出して埃を払わない方がいい。
 このまま奥底にしまったままにしておいたほうがいいのだ。きっと。

 ──そう。あの、雨の日の記憶とともに。
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