第6章 海の底

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「綾瀬」
 雅哉がゆっくりと立ち上がる。肩に置かれようとした手を美月は思いきり払いのけた。堰が切れた今、溢れだす感情と言葉を押さえることができなかった。
「母は望んで父と結婚したわけじゃなかった! 母が本当に愛したのは父じゃなくて別の人だった。私は望まれて生まれてきたわけじゃなかった! だったら要らない! 私なんて、私なんて生まれてこなければよかったのよ!」
 ふいに、耳元で大きな音が炸裂した。
 空気を切り裂くようなブレーキ音。衝撃と痛みと咽せ返るような血の匂い。赤、赤、赤、視界いっぱい鮮やかな色彩が広がる。すぐそばで聞こえていた咳込むような音と、ちいさな呼吸音は次第に途切れがちになり、やがて、消えた。肩に触れていたやわらかなものからも温もりが徐々に失われていく。
 遠くで誰かが叫んでいた。ほとんど悲鳴に近いような声。脳天を貫くような金切り声。思わず耳を塞ぐ。うるさいうるさいうるさいだまれだまれだまれだまれ!
「美月!」
 強い力に、揺さぶられた。視界を埋め尽くしていた赤が消え失せ、すぐそこに雅哉の顔があった。
「美月」
 もう一度、雅哉が名前を呼んだ。
「……はい」
 返事をすると、声はかすれ喉の奥が引き攣れたように痛んだ。
「諒子さんが言ってた、事故のときのこと。おまえの両親は二人とも、おまえに覆いかぶさるようにして亡くなってたって。二人が二人して寄り添い、おまえを守るようにして亡くなってたって」
 頬をあたたかいものが伝った。
「きっと二人ともおまえを守ろうと必死だったんだ。最後の最後までおまえだけはって」
 大きな手のひらが濡れた頬をやんわりと包み込む。
「俺は、おまえの両親を知らない。けどおまえはよく知ってるはずだ。誰よりも彼らのことを。おまえが信じてやらなくてどうする。何も知らない他人の言葉に惑わされるな。おまえがずっと、小さいときからずっと見てきたものが、それだけが真実だ」
 私がずっと見てきたもの。
 いつも、笑っていた。美月の記憶のなかにいる両親はいつだって笑顔だった。
 決して裕福ではなかった。けれど幸せだった。
 美月がお腹にいるのが分かった日ね、とてもきれいな満月が出ていたの。
 それからお母さんがお父さんにプロポーズされたときも。
 だからね、あなたの名前は美月。
 美月、あなたはね、お父さんとお母さんの愛の証なのよ。
 そう言って照れ臭そうに笑う母の顔と、日に灼けた肌を赤く染めて頭を掻く父の顔とが交互に浮かび、そして消えた。
「……あの日は、私の誕生日で、家でお祝いしたあと私がドライブに行きたいって、わがままを言って、」
 その日が、両親の命日となった。
 堪え切れずに喉の奥から漏れた嗚咽を必死に飲み下そうとしていると、頭を抱えるようにして抱き寄せられた。
「おまえのせいじゃない」
 大きな掌が髪を頭ごと撫でる。
「でも、私のせいでみんなが、」 
「おまえのせいじゃない」 
 事故のあと、目を覚ましたのは一週間後だった。それから退院までさらに二週間。
 葬儀やその他諸々の手続きは綾瀬の両親が取り仕切ってくれたらしく、美月が病院にいるあいだにすべて終わっていた。
 美月が目にしたのは、仏壇の前に並べ置かれた二つの白い箱だけで、正直、何の実感もなかった。事故の記憶を失っていたせいもあると思う。おかしな話、涙ひとつ出なかった。
 それでも幾度となく激しい感情の波に攫われそうになることはあった。おもには自分だけ生き残ってしまったという罪悪感と、両親の死の責任を負わされるべき自分だけがなぜか生かされているという矛盾にだ。だが、けしてそれは表に出してはいけないと思った。
 寄る辺をなくした美月に救いの手を伸ばしてくれた綾瀬の家族の前ではなるべく気丈に振る舞った。心配をかけたくなかった。一刻もはやく日常を取り戻すことが彼らに対して自分にできる唯一の孝行だと思ったからだ。
 だからひたすら感情を押し殺すことに腐心した。いろんなものに蓋をした。そして目を逸らしてきた。見ないようにしてきた。
 それなのに。
「おまえのせいじゃない」 
 何度も何度も、言い聞かせるようにして何度も耳元で囁きかける声。
 なぜだろう。いつだってそうだ。彼の声は、いや彼の声だけが美月の深い部分まで届き、奥底に沈めていたはずのいろんなものを揺さぶる。
 美月は声を張り上げて泣いた。両親のことを思い、初めて流す涙だ。
 ずっと胸につかえていたものが融けて流れていくのが、頑なだった心が、あたたかい手によってゆっくりとやわらかになっていくのが、わかった。

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