第6章 海の底

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 ──ねえ、聞いた? 綾瀬さんのところに引き取られた子って、例のあの。
 ──ああ、よく美優ちゃんといっしょにいた。
 ──そうそう。そうだけどそのことじゃなくて。あの子って、綾瀬さんとこのご主人と昔、噂があった人の子供なんだって。
 ──結婚の約束をしてたのに、親の猛反対にあって別れさせられたとかっていう?
 ──そうそう。
 ──へえ。じゃあ、お互い、今の結婚相手とは妥協しての結婚だったってこと?
 口さがない噂話だとは思いつつ、偶然耳にしたその会話は心のどこかにずっとぶら下がったままになっていた。そしてあの日。

 美月、おまえを愛してるんだ。
 どこかへ行くなんてそんなの絶対に許さない。
 また私を置いてどこかへ行ってしまうっていうのか。

 ああ、きみは本当にお母さんに似てきた。

 それはあの日、あのひとに掴まれた場所からはじまった。
 はじめ、手の形を成していたそれはまるで生き物のように蠢き、手の甲から手首へ、そして肘へと徐々に肌を這い上り、広がっていった。今ではもう、地肌はほとんど見えない。まるで墨汁を塗りたくったようにどす黒く変色した肌。
 見られたくなかった。触れられたくなかった。知られたくなった。
 彼にだけは。
 
 抱えた足に顔を埋めたまま動かない美月の隣で、雅哉の気配もまたずっと動かずそこにある。どれくらい時間が経ったのだろう。ふいに雅哉が立ち上がった。反射的に身体がはねる。
「腕、出して」
 すぐに戻って来た雅哉が抑揚のない声で言った。美月は顔を伏せたまま首を振る。
「血が出てる。そのスウェット、下ろしたてなんだ」 
 仕方なくのろのろと右腕差し出す。雅哉は「触るぞ」とひと言断りを入れ、さらに美月が頷くのを待ってから手当を始めた。ガーゼを当て、その上から慎重な手つきで包帯を巻きつけていく。黒い皮膚が腕が少しずつ包帯に覆い隠されていくのを眺めながら「先生」と言った。
「もう、いいですから」
「いいってなにが?」
 雅哉が手を止めずに尋ねる。
「……もし、もしも先生があのときのことに責任を感じてらっしゃるんだとしたら、もういいですから」
「あのときって?」
 雅哉の視線は上がらない。ただ淡々と作業をこなしていく。
「あの日のことは事故か何かだと思って忘れてください」
 いつからだろう。
「事故、ね」
 呟くように言い、雅哉は今度は美月の反対側の腕をとり、同じようにして包帯を巻きつけはじめた。
「私、だれにも言ったりなんかしませんから」
 いつから知ってたんだろう。
 知って、どう思ったんだろう。
「あのときの私は、どうかしてたんです。私も先生も酔ってたし。だからもうお互い、忘れましょう。私、大丈夫ですから」
 手当を終えた雅哉は救急箱を脇へと押しやると、立てた片膝に頬杖をついた。そして、
「大丈夫ってなにが?」
 美月の顔にまっすぐに視線を据え、言った。 
「なにが、って」
「これからどうするつもりだ」
 しずかに、雅哉が尋ねた。
「あの父親のところに戻る気か」 
 その言葉に、やっぱりそうだ、と思った。彼は知っている。きっと本当に、何もかも知られてしまったのだ。指先から痺れるような冷たさが広がっていく。ぐっと握りこんだ手に視線を落としながら言った。
「……先生には、関係ないことです」
「関係なくはないだろう」
「学校にはちゃんと行きます。もう先生にご迷惑をおかけするようなことはしません」
「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、」
「これは私自身のことです。学校の先生にそこまで心配して頂く義理はありません。あとは自分で、……ちゃんと自分で何とかしますから」
「ちゃんとできなかったからこういう事態に陥っているんだろうが」
 その声に滲んだあからさまな苛立ちに、内臓がぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。
「今がどういう時期か分かってるのか。こっちだって忙しいんだ。いちいちなんかあるたんびに行方不明になられてちゃ、たまったもんじゃねー。ほうぼう探し回るこっちの身にもなれっていうんだ」
 突然の、ひどく突き放した物言いに美月は混乱した。だがその混乱はすぐに、べつのものへと取って代わった。
「……そんなこと、頼んでない」
 身体のずっと奥のほうから湧き上がってくるものに押し上げられるようにして思わず立ちあがる。雅哉の視線がいっしょについてくる。
「そんなこと、頼んでないです。探してほしくなんてなかった。探してほしいなんて私、頼んでない。あのまま放っておいてくれたらよかったのに! そしたら、そしたら私!」   
「あのまま死ぬことができたのに、って?」
「どうして私、あのときいっしょに」
 なぜ自分だけ生き残ったのか。なぜいっしょに死なせてくれなかったのか。いっしょに逝きたかった。私もいっしょに連れて行ってくれればよかったのに。
 何度も思った。何度も何度もそう思った。あの事故の日から数えきれないほど何度も。
「私さえいなければすべてうまくいってたのに。私さえいなければ誰にも迷惑かけずにすんだのに。私さえいなければ!」

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