第6章 海の底

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 美月はしゃくりあげるように、それこそまるで子供のように泣き続けた。
 思う存分泣けばいい。そう思った。泣いて、空っぽにすればいい。長いあいだ胸の裡に溜め続けたものを全部吐きだして、すこしでも彼女の心が軽くなればいい。ただそれだけを願った。
 ひとしきり泣いたあと、美月は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をはずかしそうにタオルで拭いながら「すみませんでした」と頭を下げた。
「下ろしたてのスウェットをお借りしてしまって」
「いい、べつに下ろしたてじゃない」
「さっきはひどい態度と、それから怒鳴ってしまって」
「それもいい。俺もわざと煽った。こっちこそきつい言い方をしてすまない」
「でもご迷惑をおかけしたのはほんとですし、忙しい時期なのにほんとに、」
 すみません、とおそらく言いかけたのであろう美月は途中で言葉を区切り、「ありがとうございます」と言い換えた。 
「今度こそ、本当に大丈夫です。これからのことは正直、どうしたらいいのか分かりませんけど、けどちゃんと考えます。諒子お姉ちゃんに相談して、」
 さっきとはちがう。彼女がちゃんと前向きな気持ちで一歩を踏み出そうとしていることはわかった。分かったが正直、面白くない。
「そこに俺は含まれないのか」
 多少、不貞腐れ気味に言うと、美月は微かに笑った。「先生ってほんとに」
「なんだよ」
「本当にやさしいですよね。里佳さんも言ってました。……でもそういうのって、」
 美月は一瞬躊躇い、だがやがて意を決したように言った。
「そういうのもう、やめてもらえますか」
 言われている意味が分からず、視線で問う。
「ちゃんとわかってるんです。わかってはいるんですけど」
 美月はくしゃりと相好をくずし、言った。「……勘違い、してしまうので」
 あああ、くそ。考えるより先に、身体が動いていた。
 真っ赤に泣き腫らした目で何かを堪えるようにして笑う彼女がたまらなかった。腹立たしくもあった。ったく、こっちの気も知らないで。
 指先で顎をすくいあげ、頬を両手で固定したうえで唇を奪う。やわらかい唇はほんのすこしのしょっぱさと、コーヒーの味がした。彼女の細い腕が雅哉の胸を押したが、構わず舌先で唇を割ると、抵抗はよりいっそう強まった。
 仕方なしにほんのすこし猶予を与えてやることにする。わずかに唇を離すと美月は荒い息のむこうで「ちょ、先生、何を」と言った。
「何をって奪われたもんを奪い返しただけだ」
「は? え?」
 訳が分からないといったように目を瞬かせる美月に「ヒントその一、昼寝。ヒントその二、ハンカチ」と言うと、美月はそれこそ茹で上がったタコのように真っ赤になった。逃げようとする身体を抱き寄せる。 
「だいたいなー、責任を感じてらっしゃるんだとしたら、ってなんだよそれ」
「だってそれは」
「おまけに言うに事欠いて、あんときのことを事故だなんだと」
「……だって」
 途方に暮れたように俯く彼女を前に、どこからともなく湧き上がってきた嗜虐的な感情を押し込め、彼女の頬に手のひらを添える。涙の張った目がこちらを見た。
「やっと見つけた」
 瞬きとともに零れ落ち、頬をゆっくりと伝ったものを指先で拭う。
「長いあいだ気づいてやれなくて、すまなかった」

 ずっと探していた。
 あの日、目を覚ますと腕に抱いて寝たはずの『彼女』の姿はそこにはなかった。
 彼女について知ることは少ない。連絡先はもちろん、お互いの名前さえ知らない。なぜ訊いておかなかったのか、そのことをどれだけ悔いたかしれない。
 辛うじて知り得たの「彩華」という名前だけだが、もちろん本名のはずはなかった。
 人づてに聞いたと言い、彼女が勤めていたであろう店を尋ねた。従業員の個人情報を教えるわけにはいかない、と門前払いを食らった。
 もしかしたら『彼女』が来るかもしれない。二人で行った居酒屋に一時期、通い詰めたこともあった。結局、会えることはなかった。
 自分の家を知るはずの彼女が尋ねてくるということもなかった。
 やっぱそういう、ことだよな。
 要するにそれは、彼女にとって自分は単なる「一夜限りの相手」にすぎなかったということだ。
 美月を──彼女を意識し始めたのはいつごろだったか。
 そもそも美月と『彼女』を繋げるものは何もなかったはずだった。
 容姿も、年齢も、そして性格も。何もかもが違う二人だ。
 なのになぜか目が追っていた。気がつくと、彼女の姿を探していた。
 あの日以来、『彼女』に再び会いたいという気持ちは日増しに強くなっていたが、それに反して重ねた肌の温もりは日に日に薄れていった。いくら思い起こしたところで、新しい記憶は日々積み重なり、あの夜のことは次第に過去へと追いやられていく。
 そして気がつくと、乾いた心は勝手に記憶を上書きし始めていた。
 見えない目で見た『彼女』の顔は、いつしか彼女の顔へ。そしてあの夜聞いた『彼女』の甘い鳴き声さえも。
 肌の白さか、声の質感か、それとも線の細さか。『彼女』との僅かな共通点を探しては、美月に『彼女』を重ね合わせて見るようになっていた。

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