第6章 海の底

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 雅哉はペットボトルにキャップをし、顔を上げた。美月の視線は今度は上がらない。雅哉はじっと美月の様子を窺った。焦れるきもちを押さえつけながら、それでもたっぷり三十秒は待った。が、とくに「変化」は見られなかった。そっと息を吐きだす。
「綾瀬」
「……はい?」
「今日、本当は病院に行くつもりだったと聞いた。どこか、悪いのか?」
 美月は無言のまま、頬の横あたりの髪を撫でつけた。
 雅哉は立ち上がり、美月の背後のラックの上に置いておいた「それ」を手に取った。センターテーブルの上に移動させ、「それ」に美月の視線が向いていることを確認する。そのうえで上部にあるスイッチをゆっくりと押し込んだ。
「うるさく、なかったか?」
 雅哉の一連の動作の真意に気づいたらしい美月は「あ」とちいさく声をもらした。
「今になって思うと、色々と心当たりはあるんだ」
 一切の動きを止めたまま、美月はテーブル上のアラーム付の電子時計を凝視している。
「たとえば笛吹ケトルの音」
 美月が友人二人と連れ立って突然、家を訪ねて来たときのことだ。
 彼女にはてっきり嫌われているとばかり思っていたので、彼女がそこにいるということに驚いた。だが、問題はそこじゃない。
 雅哉は不思議に思っていた。笛吹ケトルの音というのは案外、大きい。湯が沸いたことを報せることが目的のものなので、仕方ないといえば仕方ないのだがピーピーと煩くてかなわない。なのに、いくらぼんやりしていたとはいえ、すぐそばであれだけうるさく鳴る音に気がつかないものか。そのせいで彼女は手に火傷を負った。
「あと、タイマー貸してやるって言ってるのに頑なに拒否してたよな。携帯使うからいいって」
 使い慣れたもののほうがいいとはいえ、あくまで携帯に付属のアプリケーションの
タイマーより、それ専用のもののほうがはるかに使い勝手はいいはずだ。だが、美月に必要だったのは使い勝手の良さなどではなかった。彼女に必要だったのは、携帯にしかついていないバイブレーション機能だったのだ。
「それとさ、相良が言ってたよ。おまえはよくぼんやりしてて、大声で呼んでるのに全然気づいてくれないって。あいつの声、やたら高くてきんきん耳に響くんだけどな」
 美月は視線を自分の膝のあたりに固定したまま、こちらに一切、表情を窺わせない。
「あとは、……ああ、そうか。修学旅行の時のレクリエーションのときだな。あの、カラオケとかでマイク使ってたらなるやつ。ハウリング音っていうんだっけ? 河野がはりきって声張り上げたせいで凄まじい音してたけど、周りが悶えまくってるっていうのに、ひとり涼しい顔してたよな、おまえ」
 「最後にあれ」と、雅哉はテーブルの上の電子時計を顎で示した。
「見覚え、あるだろ? あの夜、まさに真っ最中に鳴りだした時計だ」
 弾かれたように立ち上がった美月の視線はリビングの扉に向いていた。雅哉はすかさずソファとセンターテーブルのあいだに移動した。
 行く手を塞がれた美月は怯えたように後ずさった。すぐに壁にぶつかる。一歩で追いついた雅哉は壁に手をつき、彼女の退路を奪った。
「綾瀬」
 怯え切った目が雅哉を見た。
「……あの時も聞こえなかった、今みたいに。そうだろ?」
 美月は曖昧に頷き、今にも泣きそうな顔をした。
「事故の後遺症か?」
「高音域の音はもう……ほとんど」
 ごめんなさい、と美月は震える声で言った。
「ごめんなさい、騙すつもりじゃ」
「綾瀬、俺は」
 彼女の肩に手をかけようとすると、美月は雅哉の腕の下をかいくぐって逃げようとした。
「待ってくれ、俺は」
 とっさに掴んだ手首はさっきと同様、すぐさま振り解かれそうになった。が、今度はそうはさせなかった。握った手に力をこめる。
「離して!」
 悲鳴に近い声をあげて美月は暴れた。仕方なくもう片方の手首も捉え、動きを封じる。
「綾瀬、聞いてくれ」
 そのときふと、視線が吸い寄せられた。ずり下がった袖口からは細い生身の腕が覗いている。
「いや! やだ、離して!」
 雅哉の視線の行き先に気づいた美月はますます暴れた。両の手でそれぞれ掴んでいた手首を片方でまとめあげ、慎重に袖を捲っていく。肘下までたくし上げたところで、雅哉は思わず顔をしかめた。
 美月は耐え切れなくなったように背中で壁を擦りながら膝から崩れ落ちた。
「きたない……でしょ」
 彼女の声は細く震えた。
「落ちないの。洗っても洗っても全然落ちなくて。落ちなくて! 腕とかお腹とか! どんなに擦っても擦ってもぜんぜん落ちなくて!」
 彼女の目に見えているものは雅哉には見えない。見えているのはただ、痛々しいほどに真っ赤に爛れた、細い腕だけだ。
「私……きたない。おねがいだから、……はなして」
 見えているのはただ、内も、外も、おそらく全身至るところに傷を負ってすすり泣く、小さな女の子だけだ。

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