第6章 海の底

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 雅哉は反射的に彼女の腕から手を離すのと同時に、中味をぶちまけそうになっていたマグカップを間一髪救う。
「驚かせて悪かった。その、やけどしなかったか?」
 それには答えず、美月は壁に背を押し当てた状態で「先生?」と言った。
「ああ」
「あの、私?」
 美月は落ち着きなく視線を彷徨わせた。
「覚えてないのか?」
 一瞬、向いた視線はまたすぐ逸らされる。
「海に、行きました」とだけ言い、美月は俯いた。
「心配したんだぞ」
 雅哉は大きくため息をついた。
「諒子さんからおまえが帰って来ないって連絡もらってさ。まあ、息抜きしたいって気持ちも分かるが、行き先はちゃんと知らせとけ。でないと、」
「すみません」
 言って、美月はベッドの上で居住まいを正した。
「ご迷惑をおかけしました」
 膝に額を擦り付けるようにして頭を下げる。そして、
「私、帰ります」
「おい、ちょっと待て」
 立ち上がった美月の腕を捉えた雅哉の手は鋭い悲鳴と共に振り払われた。
「悪い」
 その言葉に、美月は傷ついた顔をした。ごめんなさいちがうんです。今にも泣きそうな顔でかぶりを振る。雅哉は彼女の顔をまともに見ることができず、足元に視線を落とした。
 自分を見る彼女の目に宿った恐怖を、直視することができなかった。

「あの」
 躊躇いがちな声に振り返る。美月がリビングの入り口に立っていた。
「さすがにでかいな。服が歩いてるみたいだ」
 雅哉の貸したサイズのまったくあっていないスウェットを着た美月はひどい、と拗ねたように言い、それから少しだけ笑った。
「なんか飲むか? さっきと同じものか、コーヒーか、あとはまあ水くらいしかないけど」
「いえ、なにも。ありがとうございます」 
「そうか。じゃあ、まあ座れ」 
 一瞬、何かを言いかけ、だが諦めたように美月は向かいのソファに腰を下ろした。
「何か、俺に力になれることはないか?」
 膝のあたりに置かれていた視線がゆっくりと持ち上がった。やわらかな笑みが作られる。
「ご心配いただきありがとうございます。でも、大丈夫です」 
 すうっと目に見えないラインが目の前に引かれたのが分かった。分かったが、もちろんここで引き下がるつもりはない。 
「大丈夫って何が? 自殺未遂までやらかしといてか?」  
 言葉には自然と棘が立った。雅哉は腹を立てていた。こんな状況にあっても頑なな態度を崩そうとしない美月に。
 美月の顔からは一切の表情が消え失せていた。
「下手すりゃ死んでたんだぞ、おまえ。俺が行くのがあと少しでも遅かったらあのままあそこで死ぬところだったんだぞ!」
 美月はびくりと竦めた身体を前のめりに倒した。雨に打たれ、重みを増した木の枝がしなるように。
「……たのむ。力になりたいんだ」
 美月は俯いたままどこかが痛むように顔を歪めた。何かを必死に堪えているように見えた。やがて彼女は何かを振り払うようにして首を左右に振り、言った。 
「先生にこれ以上ご迷惑をおかけするつもりはありません」
 だめか。
 雅哉はため息をつき、ソファに預けていた背中を浮かせた。
「諒子さんに無理を言っておまえをこっちに連れ帰ったのはちゃんと話がしたかったからだ」と前置きをした上で、
「教師じゃなかったら?」と言った。 
 顔を上げた美月と目が合った。 
「じゃあ俺が教師じゃなかったら? はじめて会ったとき、俺とおまえの関係は今とは違ってたはずだ」
 雅哉は美月をまっすぐに見た。美月もまた雅哉を見ていた。
 沈黙はそれほど長い時間ではなかった。 
「何を仰ってるのかわかりません」
 美月は雅哉から視線を逸らすことなく言った。あまりに淀みない言葉に思わず怯みそうになったが、それを押し隠して雅哉は続けた。
「ちょうど一年近く前だ。中年男に絡まれてるところを助けてやったろう? 覚えてないか?」
 すこし考える素振りを見せたのち、美月は「人違いじゃないですか」と言った。
 そうか、と返した雅哉に美月は少しほっとした表情を見せながら「そうですよ」と後押しするようにうなずいた。
 雅哉は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた。いるかと尋ねると美月はいらないと言った。雅哉はソファに腰掛け水を飲んだ。美月は手持無沙汰に膝の上で指を組んだり解いたりをくり返している。
 待っていた瞬間は、ほどなく訪れた。

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