第6章 海の底

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 雅哉は待っていた。 
 暗闇に沈んだ室内に、隣のリビングから漏れた光が差し込んでいる。薄く開いた扉の隙間から入り込んだその光は床を伝い、ベッドを這い上り、さらにその上の掛け布団の上にまで伸びていた。なだらかな曲線を描くそこは、静かな呼吸音に合わせ、一定のリズムで上下している。
 砂浜に横たわる人影を見つけたとき、心臓が止まるかと思った。抱き起こした身体は冷え切り、頭も腕もぐにゃりと垂れ下がった。
 呼吸と心音を確認したのち、そこから一番近い病院へ駆け込んだ。命に別状はないとの言葉に安堵の息を漏らしたが、時季が時季だけに発見がもう少し遅かったら危なかったと言われ、改めて心臓が冷えた。
 最悪、入院も覚悟していたのだが、帰宅の許可はあっさり下りた。あまり大きくない病院だ。病床数にも限りがあるのだろう。年末にかけて増えるであろう患者のため一つでも多くのベッドを確保しておきたかったのかもしれない。
 とはいえ、緊張は未だ解けない。
 意識を取り戻す場面は何度かあった。医者の問いかけにも、こちらの問いかけにも反応を示した。だが、その様子はどこか虚ろで、いわゆる夢現といったかんじだった。夢と現実を行ったり来たりしているような。そして家へ連れ帰ってからは、ずっと眠ったままだ。
 雅哉は待っていた。彼女が目を覚ますのを。
 話したいことはたくさんあった。訊きたいことも。
 雅哉はただひたすらその瞬間を待った。

 そして、その時はやってきた。 

 痙攣するように瞼が震え、ゆっくりと目が開いた。
 何度か瞬きをくり返したのち、半ば布団に埋もれたようになっていた顔がこちらを向いた。
「目、さめたか」
 なるたけ抑えた声で問う。反応はない。
「気分は?」
 美月は横たわったまま不思議そうに雅哉を見ている。まるで幼い子供のような表情だ。たしかに目は合っているはずだが、その視線は雅哉を通り越し、どこかべつのところを見ているような気がした。
「どこか痛むのか?」
 美月は微かに首を振り、視線を再び天井へと移した。あまりに鈍い反応に、そろそろとまた不安が頭を擡げ始める。
 雅哉は美月を寝室に残し、キッチンへ立った。どこかでココアを見たような記憶があり(おそらく里佳が買い置いていたものだ)あちこち探すが、結局見つけられず、 インスタントコーヒーに温めた牛乳を注いだだけの即席のカフェオレを作った。
 マグカップを手に戻ると、美月はベッドの上に身体を起こしていた。湯気の立つカップを両手で包み込むようにして、おそるおそる口をつける。
 あったかいと呟き、美月は首を傾げた。
「さっきまでは海のなかにいたのに」 
「海のなか?」
 尋ねると、美月はカップに視線を落としながら頷いた。
「私、海のなかにいた。光も届かないくらい深くて、上も下も分からなくて、でも、ずっと、……ずっと上のほうに水面があって、その水面越しに月が、見えてた。波でゆらゆらと光が揺れてて、すごく……きれいで」
 美月はうっとりと、恍惚とした表情で語る。その目はやはり、どこか遠くを見ているようだった。
「誰かが呼んでるような気がした。けど私、聞こえないふりをしてたの。どこにも行きたくなかった。だってすごくきもちよかったから。ぜんぜん寒くなくてあったかくて、どこまでもどこまでも落ちていって、それで私、」
 思わず腕を、掴んでいた。はずみでカップの中身がこぼれる。どこかに行ってしまうんじゃないかと、今にも消えてしまうんじゃないかと、そんな気がした。
 美月は驚いたように自分の腕を掴む手を見、濡れたシーツを見、それから雅哉へと視線を移した。ふいに、虚ろだった瞳に感情が灯る。
 短く悲鳴を上げ、美月は後じさった。     

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