第5章 白い足あと

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 ぬるくなり、甘ったるさがより増したコーヒーを死ぬ気で飲み干したところで、階下から誰かがやってくるのに気がついた。
「そこを上りきって、右に。突き当たりの部屋です」
 安斎と共に階段を上って来たのはトレンチコートを着た長身の男だった。会うのは初めてだったがすぐに分かった。美月と、それから美優の父親だ。彼は美優によく似ていた。というより美優が父親似なのだが。二卵性なのか、美月と美優はあまり似ていない。
 二人が階段を上りきったタイミングで頭を下げると、男は足を止めた。
「はじめまして。美月さんの担任をしております、進藤といいます」
「あ、ああ、そうなんですか。はじめまして、美月の父親の綾瀬正親と申します。いつも娘が、娘たちがお世話になっております」
 正親はスーツの内ポケットを探り、すみません、と申し訳なさそうに言った。
「あいにく今、名刺を切らしてまして」
「いえ」
 たしか彼はそこそこ名の知れた企業の重役だったはずだ。スーツ、腕時計、靴、さすが身なりも其れ相応、だ。
 だが、よほど慌てて来たのか、元々はきれいに撫でつけられていたであろう髪は、大いに乱れていた。息も荒く、顔には疲労が色濃く滲んでいる。娘があんな目にあったのだ、当然のことだろう。
 かけるべき言葉を探していたところで、廊下の反対側から美月がさっきの女性署員に付き添われ、戻ってくるのが見えた。
「……美月」
 父親の悲壮感溢れる声に、美月の足が止まる。顔色はさっきよりさらに悪く見えた。正親は駆け寄り、娘を抱きしめた。男の雪に濡れた肩の向こう、相変わらず白い美月の顔が見えた。
 ねえ、とふいに里佳が雅哉の袖を引いた。振り返ると、里佳は美月と正親に視線を据えたまま「お願いがあるの」と、言った。
「今から私が言うこと、すること、黙って見ててほしいの。責任は全部、私がとるから」
 言うが早いか、里佳は二人のもとへと向かった。止めるひまもなかった。
「あの、すみません。ちょっとよろしいですか?」
 かけられた声に、正親が振り返る。突然現れた見知らぬ女を前に、正親は怪訝な表情で、はい、と頷き、腕に抱いていた美月を身体から離した。
「あ、私は彼の」と、里佳は返した手のひらで雅哉を示し、「進藤の同僚で、雪森里佳といいます」と自己紹介をした。
 はあ!? と、口をついて出そうになった言葉は辛うじて呑み込んだ。
 ああ、先生でしたか、と緊張を解いた正親に、里佳はにこりと笑って見せる。
「あの、それで何か?」
「あ、はい。あの、聞くところによると、今、奥様のご実家が大変だとか」
「ええ、まあ。家内の母親が倒れまして」
「奥様はもうそちらに行かれてるんですよね?」
「ええ、この子の妹を連れて。この子はちょうどその時出かけていまして、おまけに連絡もつかなかったようで、……それで、」
 表情を曇らせた正親に同調するように里佳は眉根を寄せる。
「……あの、では今日はこのあと、お二人はご自宅のほうへ?」
「はい、まあ。新幹線も今日はもう動きそうもありませんし、それに美月も自宅でゆっくりしたほうが、」
「そのことなんですが」
 合間にやや強引に突き込まれた言葉に、正親が面食らったように、はい、と頷く。
「私、美月さんの今の心理状態がとても気になって。美月さんは今、心身共に傷ついていらっしゃいます。とくに男性といっしょにいるということは、今の彼女には大変なストレスを与えることになると思うんです。で、大変不躾なお願いで恐縮ですが、今夜一晩、お嬢様をこちらでお預かりさせて頂くことはできませんか?」
 里佳はひと息に言い切った。雅哉は思わず、おい、と叫びそうになるが、さっきの里佳の言葉が辛うじてストップをかける。正親は、はは、と乾いた笑いを漏らした。
「えーと、その、何ていうか、娘のことでそこまで心を砕いて頂けるのは大変ありがたいことなんですが、……ですがその、だって私はこの子の父親、ですよ?」
 分かってます、というように里佳は大きく頷いた。
「けれど、彼女にとっては紛れもない『男性』なんです。たとえお父様でも」
 実際、彼が、とまたも里佳は雅哉を示す。
「進藤が彼女を心配して声をかけた際にも、彼女は激しい拒否反応を示しました」
 そうですよね、と急に話を振られた安斎は文字通り飛び上がり、「あ、はい。はい、そうです」と首を何度も縦に振った。さっきの一件以来、彼はひたすら従順な犬に成り下がってしまったようだ。もちろん、里佳限定だろうが。
「ねえ、どうかな?」
 里佳は膝に手をあて腰を折ると、美月の顔を覗き込んだ。美月からの返事はなく、てっきり諦めるのかと思いきや、里佳は美月の耳元に顔を寄せ、何事かを囁いた。
「どう?」と、再び里佳は美月の顔を下から覗き込む。
「よろしく、お願いします」
 美月はゆっくり、そして深く頭を下げた。 

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