第5章 白い足あと

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 話がまとまってからの里佳の行動は素早かった。まずは自分の自宅近くに住んでいるという友人に電話を掛け、近くのコンビニで下着と歯ブラシセットを買ってきてくれるよう、約束を取りつけた。
 買い物に行ってる間、彼女一人にしとくわけにはいかないでしょ、と里佳は言った。
 呼びつけたタクシーが来るまでにはまだ時間がかかりそうだった。ロビーに移動し、今度はどこかしらに素早い指捌きでメールを打っている里佳に「なあ」と声をかける。
「なに?」
 里佳は忙しなく指を動かしつつ、視線は画面に固定したまま答えた。
「おまえさ、いつから俺の同僚になったんだっけ?」
「……え? 私は『元』同僚と言いましたけど?」
 ちら、と視線だけくれて、しれっと言い放つ里佳に雅哉は脱力する。
「いやいやいや。大体、『元』っていつだよ」
「ほらー、一年前よ。私さ、たまたま雅哉が当時いた学校に行ったじゃん? あれよ、あれ」
「おまえな、ああいうのは同僚とは言わないだろ」
「細かいこと言わない言わない」
 ひらりと振られた里佳の手の向こうに、美月の姿が見えた。ゆっくりとした動作でこちらに歩いてくる。その少し後ろには正親の姿もあった。
「それとさ」
 声を潜める。
「さっき彼女に何か耳打ちしたろ。あれ、なんて言ったんだ?」
 まさか彼女が了承するとは思ってもみなかった。何よりも他人に迷惑をかけることをよしとしない彼女が、だ。
「さあね」
 ふっと笑い、肩を竦めると、里佳は美月のもとへと駆け寄った。
「大丈夫?」
 里佳の問いかけに、美月が申し訳なさそうに頷く。
 ちょうどそのタイミングでタクシーがやってきたのが見えた。揃って外へ出る。
「では、よろしくお願いします」
 里佳に向かって頭を下げた正親に、美月が「お父さん」と声をかけた。
「今夜のこと、お母さんと美優には言わないで」
「……ああ」
 正親が頷くのを確認してから、美月はタクシーに乗り込んだ。
 雪は、いつの間にか止んでいた。


 ラッシュの時間帯はとうに過ぎていたためか、雪道とはいえ、帰りは思ったほど時間はかからなかった。
 家に着くと、すぐさま風呂にいつもより熱めに湯を張り、しきりに遠慮する美月を無理矢理押し込んだ。「ゆっくり浸かるのよ」と、念押しをして。
 部屋を見回し、不備がないかチェックする。ベッドのシーツは今朝替えたばかりだからよしとしよう。トイレもキッチンも、昨日の夜、ぴかぴかに磨き上げた。二日前だったら完全にアウトだったな、と安堵の息を漏らす。
 テラスへ出ると何もかもが雪をかぶっていた。枯れた観葉植物の鉢植えや壊れた扇風機、それから溜めに溜めたビールの空き缶も。とりあえず、と部屋から一時的に避難させたものたちは真っ白な毛布に覆われ、きれいな雪景色の一部へと、みごとな変貌を遂げていた。
 同じく雪に埋もれていたサンダルを見つけだし足を突っ込むと、煙草を一本取り出し、咥えた。半年、新記録を更新しつつあった禁煙日数は残念ながらここで打ち止めだ。今日はどうしても頼らざるを得なかった。
 久々の煙草は心底こたえた。二本目に火を点けたところで、「さてどうすっかなー」と、独りごちる。
 雅哉には悪いが、さっきの美月の彼に対する態度はいい布石となってくれた。何とか勝ち得た猶予はたったのひと晩。さて、どこまでいけるか。
 ふと、足元の小高い雪山を爪先で蹴ると、ばさりと雪が落ち、なかからゴミ袋が姿を現す。そういえばこいつも忘れてた。この前の回収日に出し損ねてしまった生ごみだ。
 それで隠れていたつもりか。
「けどね、匂うんだよ。ぷんぷんと」
 里佳はゴミ袋に渾身の一撃をお見舞いすると、ぐっと拳を握りしめた。
 見てろよ。化けの皮、引っ剥がしてやる。

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