第5章 白い足あと

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 吐き気を訴えた美月が女性署員に抱えられるようにして部屋を出て行ったのは、それからすぐのことだった。廊下に出ると、里佳が立っていた。
「今はたぶん、感情が昂ぶってるんだと思う。だから気にすること、ないよ」
「見てたのか」
「見えた、のよ」
 微妙に言い直し、里佳が両手に持っていた紙コップのうちの一つを差し出した。礼を言って受け取り、「なあ、ちょっといいか」と、階段の降り口のところまで連れ出す。
 手摺部分に腰掛け、コーヒーに口をつける。顔をしかめたのを見た里佳が肩をすぼめて笑う。
「あえての砂糖入り。疲れてるときには糖分摂取がいちばん」
「にしても甘すぎないか?」
「そう? 私はもっと砂糖多くてもいいくらいだけど」
 言いつつ、里佳は雅哉の向かいの壁に背を預けた。
「……なあ」
「んー?」
 里佳は両手で包み込んだ紙コップに息を吹きかけ、コーヒーを冷ましている。そういえばひどい猫舌だったな、と思いだす。
「犯人、捕まるかな」
 里佳はさあどうだろう、と言い、それから、難しいかもね、と言い直した。
「あのさ」
「うん?」
「実は前もさ、こういうことがあったんだ」
 コーヒーをすすっていた里佳の動きが止まる。下げた視線の先、里佳のブーツが目に留まる。たしか今日のために下ろしたのだと言っていた。きれいなブラウン色をしていたはずのブーツは雪と土で汚れ、見るも無残な有様となっている。少し、申し訳ない気になる。雅哉はそのブーツの爪先をぼんやりと眺めながら続ける。
「けっこう前のことだけど、彼女、駅の地下通路で襲われたことがあってさ。けどそんときはたまたま俺が通りかかったから、……まあ。でさ、まさかそんときと同じヤツってことはないと思うけど、……けど万が一、ってこともあるかもしれないし、何ならそんときのこと警察に言ったほうがいいんじゃないかって」 
「そのときはどうしたの? 通報とかは?」
 すかさず里佳が尋ねる。
「彼女が両親にも言わないでくれって言うから警察にはもちろん、俺以外誰も」
「じゃあ、言うべきじゃないわね。今さらだし」
「けど、何らかの手掛かりにはなるかもしれないだろ」
「手掛かりってなんの?」
 やけに冷たい声がそう言い放った。
「なんのって、そりゃ、犯人の」
「彼女は『転んだ』って言ってるんでしょ?」
「そんなの嘘に決まってるだろ! あんなの誰がどう見たって、」
 さっき美月に感じた憤りのまま、思わず声が荒くなる。が、返す里佳の声は冷静そのものだった。
「あなたがどう思おうと彼女が『転んだ』って言ってるんなら、彼女は『転んだ』のよ」
「けどそれじゃあ、犯人野放しにしろって言うのか」
 噛み合わない意見に次第に苛立ちが募る。だが、
「じゃあ、彼女がそれを望んでるって言うの? 犯人を捕まえてほしいって?」
「それ、は……」 
 里佳は深くため息をつき、言った。
「たとえ犯人が捕まったとしても、彼女の傷が癒えるわけじゃない」
 けど、と抗弁したくなるが、その先に続けられる言葉を見つけることができない。
「犯人を捕まえたいのは『彼女』じゃない、『あなた』でしょ」
 冷え切った廊下に、里佳の鋭い声が響き渡る。
「あなたは彼女があんな目にあって、その責任の一端は自分にあるって思ってる。だからこの現状をどうにかしたい、挽回のチャンスが欲しい。犯人を捕まえたいのは彼女のためじゃない、あなた自身のため。ただ単にあなたが犯人とっ捕まえて、そいつ詰って、それでもって自分の溜飲を下げたいだけでしょ!」
 鋭い切っ先は容赦なく突き立てられた。そしてその刃先は、痛いところをみごとについていて、雅哉はただ、黙って俯くことしかできなかった。
「ごめん、さすがにちょっと言い過ぎだね。やっぱり今日は、飲み過ぎたかな」
 そう前置きした上で、里佳は「でも」と続けた。
「今はただ、そっとしておいてあげてほしいの」

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