第5章 白い足あと

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「わ、ちょっと雅哉、早く早く」
 外から呼ぶ声は、先に店を出た里佳のものだ。年季の入った赤暖簾をかき分け外へと足を踏み出した雅哉もまた、思わず声を上げる。
「すごいな」
 店にいたのはせいぜい二時間足らずだ。短時間に一気に降ったのだろう。街は一面真っ白に塗り替えられていた。歩道に下ろした足は音もなく沈んだ。結晶が見えるほどの大きく重たい雪片が、ひらりひらりと舞い落ちてくる。
「まさにホワイトクリスマース!」
 歓声を上げた里佳は空に向かって大きく口を開けた。ぱくり、と綿毛のような雪をつかまえては、冷たい、と笑う。見た目に大して変化はないものの、柄にもないはしゃぎっぷりはいつもより数倍のペースで飲んだ酒のせいだろう。
「ねえ、次はどこの店行くー?」
 弾んだ声で振り返った里佳に、大きくため息をつく。
「今日はこのくらいで打ち止めにしとけ」
「えー、なんでよー」
 里佳はいくぶん回り切ってない舌で言い、頬を膨らませた。これまた柄にもない。
「飲み過ぎ」
「は? 何言っちゃってんの? まだまだこれからが本番でしょ」
 里佳との付き合いはかれこれもう六年になる。彼女の底なしは嫌というほど知っているが、今日は明らかにスタートダッシュがかかりすぎだ。これくらいでストップをかけておかないとのちのち厄介なことになるのもまたよく知っている。
「ねえ、久々にあの店行かない?」
「あの店?」
「えーと、なんてったっけ。料理がおいしくてー、お酒もおいしくてー、えーとそれから、あ、そうそう。ほら、あの、掘り炬燵がある店ー」
 思わず苦笑すると、里佳が「なに?」と訊いた。
「いや、今日はやけにその店の話題が出るな、と」 
「へえ、そうなの? じゃあ、なおさらじゃん。しばらく行ってないし」
「……そうだっけ?」
「うん。なんかさ、ある時からぱったり行かなくなったよね。行こうって誘っても、べつの店にしようって、なんか頑なに拒否ってさ」
「なんで?」と問われ、「べつに」と返す。
「じゃあさ、やっぱそこ行こうよ。なんか無性に行きたくなった。地ダコ食べたい」
「本気で言ってんのか? ここからあそこまでどんだけかかると思ってんだ」
「いいじゃんべつに。夜はまだまだ長いんだしさ。遅くなったら泊めてよ。その店、雅哉ん家のわりと近くだったよね?」
「いや、だからさ、そういうわけにはいかないだろ。明日は仕事あるし」
「よし。決まり! んじゃ、レッツゴー」
 聞く耳を持つ気はハナからないらしい。里佳は右の拳を空に向かって突き上げ、左腕を雅哉の腕に絡みつけてきた。靴底が雪にとられ滑るが、辛うじて堪えた。
 あ、と背後で声が上がった。雅哉は振り向き、そして。
 周囲から音が、消えた。
 すぐそこの店から聞こえていたジングルベルも、行き交う恋人たちの歓声も、そこらじゅうに溢れかえっていた喧騒も。それら何もかもが一瞬にして消え失せた。
 彼女が、立っていた。


「雅哉?」
 里佳が声をかけると、雅哉はハッとしたようにこちらを向いた。彼の腕に絡ませていた里佳の腕はさり気ない動作でほどかれた。そして、彼の視線は再び前に向けられる。
 少し先に、少女がいた。とても線の細い、少女だ。白いダッフルコートと、首元には顔の下半分ほどを覆う大判のマフラー。
 少女は手袋を嵌めた手でマフラーをほんの少し引き下げると、ゆっくりと頭を下げた。その拍子にマフラーから、はらりと髪がひと房、こぼれ落ちた。指先がそれをすくいあげ、耳にかける。
「もしかして雅哉の生徒さん?」
「……ああ」 
 少女は一歩、また一歩、雪を踏みしめるようにして歩いてきた。三歩分ほど距離を残し、立ち止まる。少女は里佳に向かって軽く頭を下げてから雅哉に向き直り、言った。とても落ち着いた声だった。
「偶然、ですね」
 白い吐息が冷たい空気にさあっと舞い散る。
 遠目でもそんな気はしていたが、とてもきれいな子だった。寒さのせいだろう。鼻のあたまがやや赤くなってはいるものの、化粧っ気のない滑らかな肌は、雪の色をうつしたように白かった。だからこそ目をひいた。紅をさしているわけでもないだろうに、熟れた柘榴のような色をしたつややかな唇が。白と赤。その対比がやけに艶めかしい。
 彼女は里佳の知る、記号的な「女子高生」とは一線を画しているように見えた。特別大人びた顔をしているわけではないのだが、やけに老成した雰囲気は、小柄ながらも凛と伸ばされた背筋のせいだろうか。
「こんな時間にこんなところで何してる?」
 教師の顔で、声で、雅哉が尋ねる。何だかとても新鮮だ。
「ちょっと用事があって。でも、ちょうど今から帰るところだったんです」
「そうか。時間も時間だし、気をつけて帰れよ」
「はい」
 少女は頷き、緩んだマフラーを巻き直した。
 失礼します、と律儀に里佳と雅哉、それぞれに頭を下げた少女は踵を返した。少女が歩き始めてすぐ、何かを思い出したように雅哉が少女を追い掛ける。二言三言ことばを交わしたあと、雅哉は再び彼女を見送った。
 視界の端から端へと降りしきる雪に滲み、雅哉の肩越しに見えていた彼女の後ろ姿はあっという間に分からなくなった。
 あとにはただ、彼女の足あとだけが残った。
 雅哉の肩に、腕に、雪は落ち、服の上の白い斑点は次第に大きくなっていく。
 やがて彼女の残した白い足あとも、雪に埋もれ、消えた。  

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