第5章 白い足あと

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「いよいよですねー」
 背後からの、のんびりとした声に振り返る。梶原という男性教諭が立っていた。
「進藤先生は初めてでしたっけ? 受験生を受け持つのは」
「ええ」
 手にしていた資料を置き、キャスターつきの椅子で身体ごと後ろを向く。
 そりゃあ大変だ、と言いつつ、梶原も向かいの椅子をがらがらと引き出し、座った。
「ですね。むしろ、自分が受験する時よりずっとキツいです」
 雅哉がそう言って顔をしかめると梶原は、あはは、と笑い、心中お察しします、と恭しく頭を下げた。
 数年前に妻に先立たれ、現在はやもめ暮らしだという老齢なその教師とは、たまに飲みに行く仲だ。
「綾瀬美優、すっかり持ち直したようでよかったですね。大学推薦、決まったんでしたっけ?」
 おそらく、デスクに置いていた資料が目に入ったのだろう。
「ええ、何とか。その節はお世話になりました」
「いえいえ、私は元担任だったにも関わらず、とくに有益なアドバイスもできず、申し訳ない」
「いえ、そんなことは」
 一年の時から二年の頭まで上位に食い込んでいた美優の成績は去年の夏以降、右肩下がりとなっていた。本人にそれとなく理由を尋ねてみたが「べつに」と突っ返された。何かきっかけがあるのでは、と当時担任だった梶原に相談をしたのだ。
 そもそも、挨拶する程度だった梶原と頻繁に飲みに行くようになったのも、そのことがきっかけでもあった。
「それにしても双子ってのは面白いもんですな。片方の成績が落ちれば、それに引っ張られるようにしてもう片割れも成績を落とすなんて。で、美優のほうが持ち直したってことは、もう一人のほうも?」
 ええ、と頷く。
「一時期、ちょっと志望校も危ういかな、っていう時もありましたが、今は」
「そうですか。ならよかった」
 心底ほっとしたような顔で梶原は言った。それがとってつけたものではなく、本心から出た言葉であることは分かっている。彼は根っからの教師だ。その真摯さは時々羨ましくもある。
「まあ、そういう話は聞いたことがありますけどね。本当か嘘か、片方が病気になったら健康だったはずのもう片方まで、とかっていうような」
 たしかにそういう類の話は耳にしたことがあったが、実際に「双子」という存在が身近にいた試しがないので、それについては半信半疑なところはある。
「なんというか、我々にはよく分からない絆、みたいなもんでもあるんですかねえ」
 感慨深げな梶原の言葉に雅哉は曖昧に頷いた。
「まあ、落ち着いたらまた飲みにでも行きましょうよ。ほら、何回か連れて行ってくださった店あったじゃないですか」
 店の名前が思い出せなかったらしい梶原は、その店の看板メニューをあげた。春先には何度か梶原と連れ立って行っていたのだが、最近はしばらく行っていない。
「自分でも行ってみようとしたことがあったんですが、どうも場所がよく分からなくて」
 年ですかねえ、とじきに還暦を迎えようとしている男は目尻に深い皺を寄せて笑う。
「あそこは場所が入りくんでいてちょっと分かりにくいですからね」
「また案内してくださいよ。あ、もちろんその時には奢らせて頂きますからね。お疲れ様会、ということで」
 そう言ってふと顔を上げた梶原は「じゃ、私はそろそろ」と、立ち上がった。
「え? あ、はい。お疲れ様でした」
 職員室を出て行く梶原の背中を見送った直後、彼が唐突に話を切り上げた理由が分かった。
「進藤先生」
 やって来たのは、一か月前に産休に入った教師の代打として赴任した矢内香澄であった。雅哉は内心、ため息をつく。梶原はきっと、最近生徒たちのあいだでまことしやかに流れている噂を耳にしたに違いない。
「矢内先生、まだいらっしゃったんですね」
「あ、はい。ちょっと」
 香澄は肩を竦め、笑った。片頬に、えくぼができる。年はたしか自分より一つ上のはずだが、笑うと香澄は一段と幼く見えた。身長の低さも手伝って、ここの生徒といっても通りそうである。
 げんに生徒たちには(おもに男子生徒にだが)、「香澄ちゃん」という愛称で呼ばれているらしい。よく言えば親しまれ、悪く言えば教師扱いをしてもらえない、と複雑な心境だとこぼしているのを聞いたことがある。
「あの、進藤先生って梶原先生とはよく飲みに行かれる仲なんですか?」
 梶原が出て行った扉を見ながら香澄が尋ねる。
「ええ、まあ」
 すみません、さっきちょっとお話が聞こえてしまって、と前置きした上で、
「さっき言われてたお店、私も行ってみたいです。今度ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「……ああ、でも、あそこは女性にはあまり向かないと思いますよ。そんな洒落た店じゃない上にうるさいですし」
「そんな、全然かまいません。私、こう見えてけっこうイケるくちなんですよ」
 あ、決して酒豪っていうわけではないですけど、と慌てたように香澄は顔の前で手を振った。
「でもほんと、気取ったお店とかより、むしろそういうお店のほうがいいです。仕事帰りのサラリーマンしかいないようなお店とかでも全然」
「そうなんですね。じゃあ今度機会があればぜひ」
 社交辞令の常套句はだがしかし、あっさり返された。
「いついつって今決めてください。私、スケジュール空けときますんで!」
 言いつつ、メモを取るためか香澄はジャケットのポケットから携帯を取り出した。
「ああ、えーと、今すぐというのはちょっと。梶原先生にも訊いてみないと」
「あ、そ、そうですよね。すみません、私ったら」
 香澄は恥ずかしそうに俯き、髪に手をやる。
「あの、じゃあ私、梶原先生のほうにも伺ってみます」
「そうですね、ぜひそうされてください。若い女性からのお誘いとあれば、張り切っておいしいお店に連れて行ってくださると思いますよ」 
 冗談交じりに言えば、香澄はほっとしたような笑顔を見せた。
「では、僕はこのへんで」
 デスクの上を片付け、席を立つ。
「矢原先生も早く帰られたほうがいいですよ。予報ではこれから降るらしいですから」
 そろそろ窓の外は暗くなってきていた。今日は終業式で生徒たちはとうに帰宅しているし、校内には教師もほとんど残っていないはずだ。
 ではお先に、と職員室を出た矢先のことだった。 
「進藤先生、あの!」
 追い掛けてきた声に、振り返る。
「あ、あの、も、もしよろしければ、このあとお時間ないですか? じつはちょっとご相談したいというか、相談にのって頂きたいことがあって。あの、私、美味しいお店知ってるんです。お酒もおいしくて。そ、それで、その、ご予定などがなければ、そこで食事がてらお話を聞いて頂けたらなー、……なんて」
 俯き、髪をかきあげた彼女の手はかすかに震えていた。
「……すみません。あいにくと今日はもう先約が、」
「あ、はは。そ、そうですよね、すみません私ったら」 
「あの、じゃあ別の日、でしたら」
 ぱっと上を向いた顔が、いつだったかの、遠い記憶のなかに埋もれた顔と重なった。 (進藤くんのやさしさってさ、ときどきすごく──残酷だよね)
「いえ、やっぱり別の方を当たってください。僕みたいなたかだか数年の新米教師では、とてもあなたのお力にはなれそうもないですから」

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