第5章 白い足あと

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 結局、河岸を変えて飲み直すこととなった。提案は里佳ではなく、雅哉である。
 そこからほど近い小さな居酒屋へ入る。テーブル席はすべて埋まっていたため、カウンター席に並んで座った。適当につまみになるようなものを頼み、先に運ばれてきたビールでとりあえず本日二度目の乾杯をする。
「なんかさ、すごく雰囲気のある子だったね」
 突き出しとして出された鶏肝をつつきながら言うと、雅哉は物も言わずグラスに口をつけた。
「あんたもさ」と、里佳の言葉に雅哉がグラスを手にしたまま視線を寄越す。
「なーんか変だったよね。も・し・か・し・て?」
 あほか、と雅哉は笑ってビールを飲んだ。 
「だってさー、なんか意味深に視線交わして、二人だけの世界作っちゃってさー。そういえば別れ際のあれも何? わざわざあと追いかけてって」 
「べつに。何でもないよ」
「なにそれ。ますますあやしい。妬けちゃうなあ」
「なにバカなこと言ってんだよ」
「けどさ、たとえば。たとえばだよ? あんなきれいな子に『先生、好き』とか言われたら、ぐらつかない? 私が男だったらぐらつくと思う。いや、絶対! まず間違いなくぐらつくね!」
「いったい何の宣言だよ、そりゃ」
 雅哉はおかしそうに肩を揺らして笑った。
「だいたいさ、彼女には特定の相手がいるし」
「え、そうなの?」
「スポーツ推薦ですでに進学先も決まってるサッカー部のエース」
「……へえ」
「そいつ、修学旅行のとき、ステージ上で派手な告白ぶちかましてさ。なかなかの見ものだったよ」
「ひゃー、青春! なんかもうさ、きらっきらと眩しいね」
 里佳がおどけて片手で日差しを遮るポーズを取ると、雅哉は「だな」と言い、グラスに残ったビールを飲み干した。

 その電話が鳴ったのは、雅哉が手洗いに立ってしばらくしてからのことだった。
 マナーモードになっていたため、正確にいうと音は鳴らなかったのだが。
 空のグラスに残った氷を齧りながら、メニューでしめの一品を物色していたときだ。突然、テーブルの上で振動を始めた携帯に里佳は思わず飛び上がった。店に入るとき、雅哉は携帯電話の音を必ずオフにする。里佳は彼のそういうところが好きだった。
 持ち主不在のためもちろん放置する。だが、呼び出し音はやけにしつこかった。しかも着信は何度もあった。覗き込んだ液晶画面には電話番号だけが映し出されている。名前の登録はされてないようだ。
 具合でも悪くしたか、雅哉が戻ってくる気配はなかった。だが、異常なまでのしつこさに妙な胸騒ぎを覚えた里佳は携帯を手に取り、思い切って通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
 緊張気味の里佳に対し、電話の向こうの人物はおかしなことを言ってきた。
『あの、失礼を承知で訊きますが、こちらはどなたの携帯番号でしょうか?』
「は?」
 声は若かった。男の声だ。二十代前半から半ば、里佳と同じくらいだろうか。
「あの、失礼ですけど、そちらのほうこそどちら様?」
 思わず不遜な物言いになってしまったのは仕方ない。ルール違反なのは向こうのほうだ。相手の素性を知りたければ、まずは自分から名乗るのが筋というものだろう。
 だが、次の瞬間、その何もかもは吹き飛んだ。
「……え?」
 里佳は携帯を持つ手に力をこめた。
 
 ちょうど会計を済ませたところで雅哉が戻って来た。顔色が悪い。もしかして吐いたのかもしれない。雅哉は里佳に負けず劣らず酒は強いほうではあったが、今日はあまりいい酔い方をしてなさそうだ。とはいえ、今は彼の体調を気遣っている余裕はなかった。
 スツールにかけられていたダウンジャケットと携帯を押し付けるようにして渡し、有無を言わさず雅哉を外へと連れ出す。外の冷気は容赦なく肌を刺したが、酔いを醒ますには好都合だった。おかげで身体の熱はあっという間に引いた。
「おい、金、」「いい」
 財布を出そうとする雅哉を制し、とにかくはやく、と急かす。タクシーを捕まえるためにとりあえず大通りへ向かう。相変わらず降り続ける雪のせいで人の流れはひどく緩慢だ。この調子では車を拾うのは難しいかもしれない。先に電話で呼びつけておくべきだったかと思うが、今さらだ。
「おい、一体何なんだよ」
 信号で足止めされたところで、雅哉がしびれを切らしたように言った。里佳は大きく息を吐いた。
「さっき、電話がかかってきたの。あんたの携帯に」
「電話?」
「ごめん。あまりにしつこく鳴るから勝手に出た。もしかして何か緊急なことかもしれないと思って。出たらさ、自分から電話かけてきておきながら訊くわけよ。この番号は誰のものですか、って。おかしな話でしょ? だから私も訊いたの。そっちこそ誰だってね。そしたら、ね」
「そしたら?」
 話の筋を理解できないらしい雅哉が眉根を寄せる。 
「警察だった」
 吐き出した言葉はざらりと不快に喉の奥を撫でた。すぐ横で、雅哉が息を呑んだのが分かった。
「女の子を、保護したって」

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