第4章 夜の片隅で

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 声が聞こえたのだと、美月は言った。
「先生って、進藤か?」
「……うん。でも、そんなはずないよね。まだレクリエーションやってる最中だもん、こんなとこにいるわけ、」
「さっきこっちに来るときに河野が言ってたんだ。進藤の姿が見当たらないって」
 美月が何か言うよりはやく、圭介は歩き出した。つい今しがた、慌てて引っ込めた手を力いっぱいぎゅっと握りしめて。爪が深く肉に食い込んだが、不思議と痛みはあまり感じなかった。
 足は自然と前へ前へと出る。まるで何かに急かされるようにして。
 本当は行きたくないのに。──行かせたくなど、ないのに。
 後ろから慌てたような足音が追いかけてくる。くそ。なんだよ。思わず舌打ちする。
 聞き間違いじゃないのか、って無視すればよかったのだ。今更ながら後悔するがもう遅い。
 さっき圭介が通ってきた通路とは反対側の通路を行く。人ひとり通るのがやっとくらいの細い通路だ。急に空気が重たくなった気がした。スニーカーの靴底がべたべたとタイルを叩く音がやけに大きく響き渡る。
 表側のテラスに出る少し手前、そこにもう一か所、建物の窪みに合わせた小さなテラスがあるのが分かった。そして微かにだが人の話し声のようなものが聞こえた。くそ、と口のなかで呟き、もういちど舌打ちする。
「一服でもしてんじゃね? ほら、あいつってさ、ヘビースモーカーじゃん? 館内禁煙だしさ」
 振り返り、へらっと笑ってみせるが頬が僅かに引き攣ったのが分かった。
「ま、なんにせよ、早く戻れって言ってやらねーと。教師のくせにのんびり油売ってんじゃねーよ、ってな」
 近づくにつれ、聞こえてくる声も次第に大きくなる。たしかに男の声だ。だが、声は一人分だけではなかった。何となく嫌な予感がした。すこし、歩調をゆるめる。
 そこにもまた明かりはなく、さらには建物が深く影を落としているため暗かった。客室のカーテンの裾からわずかにこぼれ落ちた光がうすぼんやりとタイルに反射し、足元を照らしているくらいだ。とはいえそれほど広い場所でもないため、見つけるのは容易だった。建物にほど近い場所に、ひときわ濃い人影を見つける。
 背中に、とん、と何かがぶつかった。美月だ。圭介が急に立ち止まったせいで、彼女の行く手を塞ぐ形となってしまったのだ。背後から声が掛けられる。
「黒川君?」
 その声に反応して、濃い影が動いた。一つのように見えていた影は二つとなった。重なっていたのだ。大きな影と、それより一回り小さな影のふたつが。
「黒川?」
 大きな影が揺らぎ、問う。進藤だ。こちらを振り返った彼が一瞬、ひるんだのが分かった。
「おまえたち、そんなところで、何してるんだ?」
「なにしてる、じゃねーよ」
 自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「てめーこそ、何してんだよ」
 怒りで声が震えるなど、はじめての経験だった。こめかみはずくずくと痛いほどに脈打っている。
 広間を出てくるとき、もう一人、ある生徒の姿が見当たらないことに圭介は気づいていた。そしてその生徒がここ最近、のべつまくなしに彼のあとを追い、まとわりついていたことも。
「こんなとこでこそこそと、いったい何してたんだよ!」
 美優が、いた。
 進藤のすぐそばに寄り添うようにして、美優は立っていた。その手は縋るようにして進藤の服の裾を掴んでいる。そのことに気づいたらしい進藤がわずかに身じろぎするが、手は、離れない。
 震えている。
 さっきからずっと続く震えは背中からきていた。それは次第に大きくなり、そして、ふっと止んだ。
 背中に触れていた手が、離れたからだ。

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