第4章 夜の片隅で

-14-

 息をきらせ走って来た圭介を迎えたのは、手摺に凭れかかるようにして立つ美月の後ろ姿だった。美月はさっきまで二人で話をしていた場所に戻っていた。はあ、と安堵の息を吐く。
「綾瀬、あのさ、」
「黒川君、先に戻ってていいよ」
 美月が背中を向けたまま言う。
「……あいつ、何もないって」
(おまえが考えているようなことは何もないよ)
 美月が立ち去ったあと、進藤は渋る美優もホテル内へと戻した。
(こんな暗がりで女子生徒と二人きりでいてか?)
 進藤は煙草を一本取り出し、火をつけた。
(ガキじゃないんだぞ。何もないで通ると思ってんのかよ。こそこそといったい何してたって言うんだよ。やましいことはないって言うんだったらちゃんと納得できるような説明してみろよ!)
 進藤は吸い込んだ煙草のけむりを吐き出した。
(……おまえには関係のないことだ)
 進藤は圭介の挑発などものともしない。生徒と同様、着ているものはジャージだというのに、煙草を吸う、というなんてことのない仕草が決まってしまう。くやしいほどに。
(それなら!)
 思わず一歩踏み出す。
(それなら! せめてあいつに直接そのこと言ってやれよ! やましいことは何もないって。おまえ、あいつのきもち知ってるだろ。とっくに気づいてんだろ!)
 進藤はゆっくりと顔を上げた。視線が合う。そして進藤は静かに、だがやけにはっきりとその言葉を口にした。必要ない、と。
「やましいことは何もないって、」
 言いながら、胸くそ悪さに反吐が出そうだった。ヤツを庇うつもりは毛頭ない。もちろん庇ってやる必要も感じない。けど。
「さっき見たこと、誰にも言わないでね」
 美月は相変わらず背中を向けたままだ。圭介が答えないでいると美月はもういちど「お願い」と念を押すように言った。
「……ああ」
 言われるまでもない。はなからそんな気はさらさらない。
「言うつもりはないよ。……誰にも」
 辛うじて、絞り出す。ありがとう、と小さな声が聞こえた。
 あいつのためじゃない。もちろん美優のためでも。
 言えばどうなるか、そんなことは簡単に想像がつく。そしてそんなことになっていちばん傷つくのはきっと、彼女だ。
「けど綾瀬はそれで……それでいいのかよ」
 ゆっくりと美月が振り返る。もしかしたら泣いているんじゃないか、そう思った。だが、彼女の顔にその痕跡はなかった。どこにも見つけることは、できなかった。
「どうして?」
 美月が不思議そうに尋ねる。それはいっそ無邪気なほどに。
「どうしてって、」 
「だって、言ったじゃない。関係ないって。黒川君、前に言ってたじゃない。教師とか生徒とか、好きになるのにそんなの関係ないって」
「いや、そうだけど! ……けどあいつは、おまえの……妹は、」
「美優が、なに?」
 その声がふいに尖ったことに気がつくが、圭介はかまわず続ける。
「あいつは本当には進藤のこと好きじゃないだろ。あれは、……あいつのは、」
 脳裏にこびりついている。ふ、と緩んだ口許。見つかってしまってどうしよう、というポーズを取りながら、一瞬だけ見せた彼女の優越感に満ちた笑みが。
 少し前にある噂を耳にした。美優と美月、それから寺田聡にまつわる話だ。
 直接聞いたわけでもなく、本当に小耳に挟んだ程度の話で、実際どこまで本当なのかもわからない。正直、それが真実かどうなのか確かめてみる気にもならないような下衆い話で、聞いてしまったことを後悔したほどだ。だが、彼女のその笑みがすべてを物語っているような気がした。
「あいつのはきっとおまえへの……その、あてつけ、だろ」
 苦く吐き捨てる。視線の置きどころに迷い、タイルに伸びた美月の影を見ながら。そして、
「あなたに何が分かるっていうの」
 その声は夜の底にぱたり、と音を立てるようにして落ちた。はっと顔を上げる。
「あなたにいったい、あの子の、……私たちの何が分かるっていうの」
 月が、彼女を照らしていた。青白い光が彼女のなめらかな肌の上を滑りおちていく。
 彼女の表情はとても穏やかだ。が、圭介は本能的に悟っていた。自分が何か決定的なことをやらかしてしまったことを。
「何も、知らないでしょ。あの子のことも、私のことも、何も」
 黒川君、と美月は言った。
「私ね、……私たちね、好きなものがほとんど一緒だったんだよ」
 そう言って美月は漫然と微笑んだ。 
「好きな色はね、青と白。それから萌葱色。芽吹いたばかりの新緑の色、春の色。だから季節だとやっぱり春が一番好き。それからコーヒーよりは紅茶が好き。とくにミルクをたっぷり入れたミルクティが。犬よりも猫が好き。犬は嫌いじゃないけど、昔一緒に追いかけられたことがあるからちょっと苦手。初恋は同じ幼稚園の男の子だった。次に好きになったのも同じ男の子。いつも同じだった。美優と私は、いつだって同じものを好きになったの」

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system