第4章 夜の片隅で

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 お月さまはキツネを見て、またまたひょいっとにげました。
 ほんとにあとすこし。ぽっかりうかんだお月さままで、あとひといきです。


 ぷつりと途絶えてしまった会話を、さてどうやって繋いだものかと考えを巡らしているところだった。ふいに視界が明るくなった。視線を上げる。稜線の少し上あたり、まさに「ぽっかり」という形容詞がぴったり当てはまるような真ん丸な月が、ちょうど雲の切れ間から姿を現したところだった。白い光は濃い闇をあっという間に薄墨色に変えていた。
「きれーだな」
「満月……だったんだね」
 そういって空を見上げた美月はどこか虚ろだったが、そのきれいな横顔に自然と視線は吸い寄せられる。
 綾瀬のほうがずっときれいだ──なんて歯が浮きそうな、浮くどころか空まで飛んでってしまいそうなそんなクッサい台詞言えるはずもなく、
「おー、うさぎがせっせか餅つきしてんな」
 結局、口から出たのは情緒もへったくれもない言葉だった。あほか。
「あー、腹減ったー」
 手摺に置いた腕に顎をのせ、半ばやけくそ気味に独りごちる。
「さっきの夕飯のとき、ご飯何杯もおかわりしてたような気がするんだけど」
 美月の呆れた声に、いやいや、と手をひらひらと振る。
「あんなもん、ものの一時間もありゃ消化しちまうっしょ」
「さすがに一時間じゃ無理じゃない?」
「育ち盛りの男の食欲、舐めんなよー」
「あー、……たしかに。男子って皆ほんとによく食べるよね。見てるだけで胸焼け起こしちゃいそう」
「だろ? 俺さー、月見てるとさ、なーんか腹減ってくるんだよなー」
 一瞬の間のあと、なにそれ、と美月が笑う。
「月見てお腹空くだなんて初めて聞いた」
 くすくすという軽やかな笑い声が鼓膜を震わせる。くすぐったい。思わず肩に力が入る。
「だってうまそうじゃん?」
「えー、そうかな? お餅がおいしそうってこと?」
「いやー、えーと……あ、そうか」
 ふと思いだし、顔を上げる。
「『お月さまってどんなあじなんだろう。あまいのかな。しょっぱいのかな。ほんのひとくち、たべてみたいね』」
 月に向かって読み上げる。横で美月が不思議そうに首を傾げた。
「たぶんさ、昔読んでた絵本のせいだわ」
「絵本?」
 圭介はくるりと身体を反転させ、背中を手摺に預けた。冷たい金属がゆるゆると身体の熱を奪っていくのを感じながら、頭のなかでぺらぺらと記憶のページを捲る。
 表紙いっぱいに描かれた、不思議な色合いの月。大好きで大好きで、寝る前に毎晩のように読んでくれと母親にせがんだある一冊の絵本。さっき読み上げたのは冒頭のフレーズで、とくにお気に入りの部分だ。
 べつになんてことない話なんだけどさ、と前置きした上で話し始める。
「あるところにさ、毎晩空に浮かぶ月を見上げては、どんな味がするんだろう、って思ってる動物たちがいるんだ。それである晩、一匹のカメが決心するわけ。いちばん高い山にのぼってかじってみようってさ。けどもちろん届くわけがなくって、ゾウやらキリンやらいろんな動物に協力してもらって、最終的にはまあ、月をかじることができるわけなんだけど、」
 本当になんてことない話なのだ。取り立てて盛り上がるような場面があるわけでもない。
 背中にのったら届くんじゃないか。カメはゾウをよびました。届きません。ゾウはキリンをよびました。届きません。キリンはシマウマを──児童書ならではの同じことのくり返しくり返しの単調なストーリー。 
 今考えると何がそんなに面白かったのか。だが、それでも当時、ちいさな少年は飽くことなくその絵本を寝物語に選び眠りについたのだ。とっくに結末を知っているちいさな物語に胸躍らせて。
「それで? 齧った月はどんな味がしたの?」
 ほんのすこし、トーンの上がった声が尋ねる。当時自分が感じていたであろうわくわくだとか、どきどきといったような気分の高揚を、今この瞬間、彼女が同じように味わってくれているのだと思うと、なんだか嬉しい。なのに、
「えーと、たしかさ、」
 あれだけくり返し聞いたというのに、もはやそれは過去の遺物と成り下がってしまっていた。細かいニュアンスは遠い記憶の彼方だ。
「動物たち皆で月を齧るんだけど、それぞれのすきな味がしましたとさ、ってオチ」
「……へえ、そうなんだ」
 ほんの少し、がっかりしたような色をその声に感じた。どうやら彼女の期待を満たすことはできなかったようだ。残念だと思うのと同時に、同じだ、と思わず苦笑する。
「拍子抜け?」
「え? あ、ううん」
「俺は初めてオチ聞いたときは、なんだそりゃ、って思ったけど」
「えーと、じつは……ちょっとだけ」
「やっぱし?」   
「どんな味するんだろ、って期待が膨らんでただけに、ちょっと、ね」 
「一緒一緒。俺も『月ってどんな味するんだ!?』って、ものすっげー期待してた分、そのオチ聞いたときのがっかり感は半端なかった」
「それで?」
 美月が僅かに首を傾ける。
「黒川くんの齧った月はどんな味だったの?」 
「俺?」
「うん。どんな味がするって想像してた?」
「そうだなあ。たしか、うーん、カレー味……だったかな?」
 言った途端だった。ちいさな、だがはっきりとした笑い声が弾けた。予想外の反応に、思わず目を見張る。いや、我ながらバカな返答だとは思ったが、まさかそこまでの反応が返ってくるとは思ってもみなかった。
 大きな声を上げることはなかったが、美月は腹を抱えて笑っていた。まるで発作でも起こしたかのように苦しげに震える肩を見つめながら、圭介は所在なく頭を掻く。
 ひとしきり笑ったあと、「ああもう、勘弁してえ。おなかいたい」と美月は苦しげな息の下で言い、顔を上げた。
「こんなに笑ったのなんて本当にひさしぶり」
 目の端に浮かんだ涙を拭い、そしてまた、くしゃりと笑う。
 その笑顔になぜだか腹の奥がずくりと脈打って、それからすこし、泣きたくなった。
 はじめてだった。こんなふうに笑う彼女を、こんなに無防備に笑う彼女を見るのは。
 そこだけ、一気に明るくなった気がした。夜だというのに、太陽が間違えて落っこちてきたかのように。
 こんなことで、こんな他愛もない話でその笑顔が見れるっていうんなら、いくらだって。逆立ちでもなんでもしてやる。なんなら素っ裸で校庭を走り回ったっていい。なんでもいい。何だって言ってくれ。きみの望むことならなんでも、何度でも。だから──
 ゆっくりと手を、伸ばした。すぐそこに、彼女の肩がある。細く、頼りない。すこしでも力を入れたら簡単に折れてしまいそうな肩。
 あとすこし。もうすこし。
 ふと彼女が何かに気がついたように振り返り、手を止める。耳を澄ますような仕草。そして彼女は言った。先生、と。





【参考文献】
マイケル・グレイニエツ
「お月さまってどんなあじ?」

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