第3章 白と白と白と、そして赤

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 そのとき風が、強く吹いたのだ。

 昼休みのなかほど、美月はスカートのポケットに入れていたはずのハンカチがないことに気がついた。慌てて記憶を辿る。三時間目の終わりにトイレに行ったときにはあった。それはたしかだ。だとすれば、失くしたのはそのあとだ。可能性として考えられるのはさっきまで弁当を広げていた第二校舎裏。
「ごめん、先に行ってて」
 麻衣にそう告げ、来た道を引き返す。
 ハンカチはつい最近、買ったばかりのものだ。クラシカルなリネンハンカチはシンプルだが使い心地がよく、気に入っていた。その分値段も張った。失くしてしまうにはどうしても惜しい。自然と歩調は速くなる。
 やがて息を切らせて戻ってきた美月は校舎の角を曲がったところで足を止めた。一瞬、見間違いかとも思ったが、そうではなかった。それに、だ。たとえどんなに離れていたとしても見分ける自信はあった。大きな桜の木の下、彼が、いた。
 足音を忍ばせ、近寄る。青々と茂った芝生の上、自らの腕を枕に雅哉は眠っていた。
 辺りを見渡すが、人の気配はない。美月は顔の横のあたりに置かれた上着と眼鏡を踏んでしまわないように気を付けながら、そっと腰を下ろした。スカートの下で、枯れた葉がかさりと乾いた音を立てる。慌てて様子を窺うが起きる気配はなく、ほっと胸を撫で下ろす。
 抱えた膝に顎を乗せる。風がゆるりと頬を撫でつけた。日差しは徐々に夏を思わせるものとなりつつあったが、幾重にも重なった葉が地面にほどよく影を落としているため、暑さはそれほどでもない。上でちらちらと木漏れ日が揺れるワイシャツは規則正しい上下をくり返している。
 こうして彼の寝顔を眺めるのは二度目となる。あの時には、また彼に会うことになるなどと、そんなこと夢にも思わなかった。彼とて、同じことだろう。もちろん、そのことを彼が知ることはこの先ずっとないのだが、時々、衝動に駆られることがある。あの夜、あなたに助けてもらったのは私です。そう吐き出してしまいたくなる衝動に。
 顔を上げ、頬に手をやる。地下道で、あの男につけられた傷は小さなかさぶたになっていた。月曜日の朝、彼の視線がさり気なく頬の上を滑っていったことに気がついた。傷はほどなく消えてなくなってしまうだろう。
 ずっと、消えなければいいのに。
 彼の視線を少しでも繋ぎ止めることができるのであれば。
 そんなことを思ってしまう自分はひどく滑稽に思えた。 
 少し体勢を変えた際に、スーツの上着の下から覗くものに気がつく。美月が探しに来たハンカチだ。どうやら彼が拾ってくれていたらしい。
 ハンカチを手に、立ちあがろうとしたところで、風に散らされた前髪の下、かすかに汗に濡れる彼の額が目に入った。膝でにじり寄り、額にそっとハンカチを押し当てる。
 そしてそのとき風が、強く吹いたのだ。
 背中を押すほどの強い風だった。とっさに両手を地面につき、身体を支える。眠る彼の身体の両脇に手をつき、ちょうど覆いかぶさるような体勢になっていた。すぐそこに、彼の顔がある。思わず呼吸を忘れた。艶のある細い質感の髪の下から覗くなめらかな額、長い睫に縁取られた目、細い鼻筋、形のいい──くちびる。
 周囲から音が消え、時間が止まったような気がした。
 何かに吸い寄せられるようにして、ゆっくりと、顔を近づける。 
 
 好きだとか好きじゃないとか、
 教師だとか生徒だとか、
 彼にどうしてほしいとかほしくないとか、

 そんなことは何だかどうでもよくなって、

 私はただ、 
 あなたに触れたいと、そう思ったのだ。


                              第3章 了

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