第4章 夜の片隅で

-01-

「あー、やっと着いたー」
 バスのステップを勢いよく降りた麻衣は、思い切り伸びをした。
 予報は雨となっていたが、すがすがしいほどに晴れ渡った空には雲ひとつない。
 駐車場から歩くこと数分。眼前に初夏の新緑に覆われた渓谷と、その対岸と対岸とを一直線に繋ぐ白い吊り橋が姿を現した。数年前に開通したその橋は歩行者専用橋としては日本一の高さと長さを誇るのだという。人がすれ違う程度の幅しかないその橋には、まだ午前中だというのに多くの観光客が往来するのが見てとれた。そして、
 橋から少し離れた場所から柵越しに下を覗き込んだ麻衣は声にならない悲鳴を上げた。遥か下のほうに川が見えた。橋は想像よりずっと高い位置に掛かっている。考えてみれば当然だ。バスに乗り、ぐねぐねと曲がりくねった道をずい分とのぼってきた。思わず、後ずさる。
 いや、待て。なんだこの高さは。聞いてないし!
 いくら日本一の高さといえど、ここまでとは思っていなかったのだ。足元からやってきた震えはほどなく全身へと勢力を広げた。麻衣は極度の高所恐怖症であった。
「後ろがつかえるから、先頭はさっさと歩けよー」
 後方からの教師の声に後押しされるようにして、止まっていた生徒たちの列がゆるゆると前進を再開する。先頭はすでに橋を渡り始めていた。橋の先端はすぐそこまで迫っている。
「うわーん、美月、どうしよー」
 麻衣は思わず横にいた美月に泣きついた。本当に、泣きそうだった。
「私さ、高いとこダメなの。ほんっとダメなの。高所恐怖症! どうしよう、こんなに高いと思わなかったよー」
 友人の思わぬカミングアウトに美月が戸惑ったように眉根を寄せる。何かを思案するように口許に手をあてた美月はやがて口を開いた。
「向こうに行って、どうせそのままこっちにUターンしてくるんだから、橋を渡らずにここで待っててもいいか先生に聞いてみる? 私もいっしょに付き合うし」
 美月の申し出はありがたかったし、できることならすぐさま飛びつきたい提案であった。あったのだが。麻衣はぎゅっと唇を噛んだあと、首を振った。
「怖いけど、でもやっぱりそれはいや。せっかく来たのに私だってみんなと渡りたい。美月や、みんなといっしょに想い出の一ページを作りたいよー」
「ほんとに大丈夫?」 
「大丈夫」
 だと思う、と心のなかで付け加えながら大きく頷く。それでも美月のほうこそが不安そうにしていたが、やがて、
「わかった。じゃあ、がんばって渡ろ」
 と、手が差し出された。細く長い指。白く繊細な指先に思わず見とれてしまう。麻衣がそっと手を重ねると、思わぬ強さでぎゅっと握られた。麻衣もまた指先に力を込め、握り返す。ぬくもりにほっとした。震えは少し、収まった。
 麻衣たちの担任である進藤が近づいてきたのは、麻衣たちが一旦列を離れ、ちょうど最後尾へとついたときだった。
「どうした?」
 突然かけられた声に驚いたのか、麻衣の手に重ねられていた美月の指先に力がこもったのが分かった。
「あの、麻衣、……相良さんが高所恐怖症らしくて、もしかしたら迷惑をかけることになるかもしれないので」
 どこか緊張したような声で美月が答える。
「大丈夫か? 何ならここで待ってても、」
「大丈夫です!」
 すかさず返す。恐怖心はどうやったって拭えそうにはないが、覚悟は決めた。置いて行かれてたまるか。
「わかった。なら俺が後ろをついて歩くから、いよいよダメだと思ったら言えよ」
 まただ。麻衣は視線を下げる。進藤の言葉に呼応するかのように、美月の身体がぴくりと波打ったのが、繋いだ手越しに伝わってきたのだ。そして、
 え、え? ちょっと待って。うそ。え?
 横に立つ友人へと視線を移した麻衣は、自分の目を疑った。

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system