第3章 白と白と白と、そして赤

-07-

「待って」
 少し前に図書室を出て行った聡に追いついたのは、渡り廊下の手前だった。
 足を止め、ゆっくりとした動作で振り返った聡の目が、驚いたように見開かれる。駆け寄った美月を迎えたのは、なつかしい匂いだった。なつかしい、油絵の具の匂いだ。
 聡は美月の呼吸が整うのを待ってから、「ひさしぶり」と言った。静かな声だった。声も、包み込むようなやさしい視線も、あのころと何ひとつ変わらないまま。
「ひさし……ぶり」  
「元気だった?」
「うん、元気。……寺田君は?」
「うん、俺も……元気」
 思ったより普通に会話ができたことに安堵の息をもらしながら、おかしな会話だな、と思う。お互い同じ学校に通っているというのに、だ。だが、あの日以降、一度も言葉を交わしてはいないのだ。一年近くになる。
「ちょっと、いい?」
 聡が渡り廊下のほうに顔を傾け、尋ねる。美月は頷き了承した。外へ出るとぬるい風が肌の上を滑った。遠くから聞こえてくる、えい、おー、えい、おー、という掛け声はランニング中の野球部のものだろうか。陸上部か、あるいはサッカー部かもしれない。いずれにせよ、美月にとっても聡にとってもあまり縁のないものだった。
「ずっと話をしたいと思ってたんだ。何度も話しかけようとして、けど……できなくて。だからこうやって、綾瀬のほうから声をかけてくれて嬉しかった」
 聡はそう言って嬉しそうに笑った。本当にうれしそうに。その笑顔に、胸の奥のほうがちりちりとして、少し眩しくて、美月はそっと視線を外した。
「けど、いざとなったら出てこないもんだな。色々と、話したいことはあったはずなんだけど」
 言いながら手摺に手をかけた聡は空を見上げ、やがて、ぽつりと言葉を落とした。月が出てる、と。
 美月もまた視線を上げる。薄綿を散らしたような雲の向こう、空の青に滲むようにして浮かぶ淡い月が見えた。
「前もこんなふうにして月を見た」
「うん」 
「そのときに俺が言ったこと、覚えてる?」
 美月が答えるより先に聡は言葉を繋いだ。
「あの時言ったことは、……嘘じゃないから。嘘じゃ、なかったから」
 
 階段を、ゆっくりと下りる。ひんやりとした空気に満たされた玄関ロビーには、人の気配はなかった。ここを訪れるのもまた久しぶりだった。聡に言われたのだ。見てほしいものがある、と。探すまでもなく、すぐにそれは視界に飛び込んできた。ロビーに掛けられていた絵はいつの間にか変わっていた。
 あの絵だった。
 やけに暑かった夏のはじまりのあの日、屋上に続く場所で見た抽象画。
(手を、伸ばしてみたんだ。もしかしたら届くんじゃないか、そんな……気がして)
 校舎の影にひっそりと寄り添うようにして浮かんだ月。伸ばされた彼の手は空を掴み、やがて静かに落ちた。
 美月は手を伸ばし、そっと、キャンバスに触れてみた。指先に、でこぼことした感触があった。幾重にも幾重にも重なった白。その白のむこうに柔らかくとろけた青。
 いつかの学校の帰り道、まだ陽が高い時間帯だったが、空に月を見つけたことがあった。真昼の月だ。聡とふたり、並んで見た。
 月はいつも静かだ。静かに地上を見下ろしている。何もかも見透かしているようで、だけどただ、静かに見ている。それだけだ。
 月が、綺麗ですね。
 そう言って振り返った聡の、ひどく照れ臭そうな顔は今でもやけにはっきりと思い出せる。
 意味、知ってる? 
 そう尋ねられ、美月は頬が急速に熱を帯びるのを感じながら頷いたのだ。何かの文芸雑誌で読んだことがある。かの文豪、夏目漱石の逸話だ。
(はじめて図書室で言葉を交わしたとき、綾瀬は俺のこと知らなかったみたいだけど、俺は、知ってた。ずっと、ずっと前から。ずっと君のことを……見てたんだ)
 何度も何度も、筆で塗り重ねられた色。白く塗り重ねられたのは、彼の想い。彼の、心。絵にはタイトルがあった。

 『眠る月』 

 きっと彼自身の手によって書かれたであろう繊細な文字を、ゆっくりと指でなぞる。
(怖かったんだ。きれいで、あまりにきれいで、触れてしまったら、毀して……しまうような気がして)
「ごめんなさい」
(ごめんなさい)
 聡は首を振り、笑った。
(いいんだ)
 彼はきっと知っていたのだ。
 美月が何から逃げていたのかを。
(美月。俺はずっと、君のことが好きだったよ) 
 きっと彼はずっと前に気づいていたのだ。
(たとえ君が、俺のことを好きじゃなかったとしても)

 彼は光だった。ずっと閉め切ったままだった厚ぼったいカーテンの向こうから、手招きするようにこぼれ落ちたあたたかな光。久しぶりに目にする光はとても眩しくて。

 だから私はただ、彼に、必死に縋ってしまったのだ。

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system