第3章 白と白と白と、そして赤

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          * * *

「一時期、ちょっと噂あったよな。綾瀬と」 
 半ば独り言のような圭介の質問に、しばし間を空けてから美月は「綾瀬って、どっちの?」と尋ねた。圭介がぱちぱちと目をしばたたかせる。
「どっちのって、……え? え?」
 そのあまりに慌てた様子がおかしくて、美月は小さく笑う。
「ねえ、訊いてもいい?」
「え? あ、ああ」
 なぜか姿勢を正し、圭介は頷いた。
「黒川君は、怖く……ないの?」
「怖いって、何が?」
「まっすぐに向かってくこと」
 言ったものの少し違う気がして言い直す。
「まっすぐに向き合うこと、かな?」
 それも何だか違う気がした。
「ごめん。何だか曖昧だね。なんて言ったら……いいのかな」 
 圭介のようなタイプの人間は少し苦手であった。言うなれば、猪突猛進、直情径行。自分とはまさに真反対のタイプの人間で、正直、接し方に戸惑う。だがほんの少し羨ましくもあるのだ。
 圭介は「まっすぐに向かって、向き合って」と、もごもごと口のなかで美月の台詞を復誦しながら腕を組んだ。上を向き、下を向き、うーん、と唸りながら考えている。
「ごめん、へんなこと言って。やっぱり今のなし、忘れて」
 ふと口をついて出た質問に、ここまで真剣に考え込んでくれるとは思わず、申し訳ない気分になる。だが、圭介は組んでいた腕を解くと、がしがしと後頭部を掻きむしりながら口を開いた。
「あのさ、」
「うん?」
「0×0は?」
「え?」
 こちらが質問したはずなのに、逆に尋ねられ戸惑う。しかもどういった意図で出されたのかもよく分からない意味不明の設問だ。
「……えーと、それってふつうに答えてもいい問題? なぞなぞ、とかじゃなくて?」
「うん、そう」
「じゃあ、その、答えはゼロ……よね?」
「正解。んじゃ、0×1は?」
「えっと、それもゼロ、かな?」
「あたり。じゃあさ、その二つの答えって同じだと思う?」
 何を、言いたいのだろう。質問の意味も、意図も、さっぱり分からない。少し考え、だがやはり分からないので素直に答える。
「どっちも同じだと思う……けど」
 ちがうの? と視線で尋ねれば、圭介は、にかっと歯を見せて笑った。
「っつっても、これはあくまで俺の持論ね」
 そう前置きした上で圭介は話しだす。
「俺さ、すっげー負けず嫌いでさ。相手が手強ければ手強いほど燃えるっつーか。まあ、結果、負けることの方が多いんだけど。けど、一番の強敵は自分自身っつーか」
「自分自身?」
 そう、と圭介は大きく頷いた。
「俺、思うんだよな。『どうせ』って言い訳した時点で勝負にはもう負けてんだよ。それってなんか悔しくない? 敵前逃亡ってかんじでさ」
 美月が曖昧に頷くと、圭介は組んだ手の上に顎をのせ、さらに続けた。
「結果はさ、あとからついてくるもんだから、正直、俺は結果がプラスになろうがゼロになろうが、はたまたマイナスになろうが構わないんだ。ま、できればプラスに越したことはないんだけどさ」
 そこで圭介は顔を上げ、ぱっと手を開いた。
「まあ、要するに結果がどうあれ、それに至る過程で自分がどれだけ頑張れたかってことだと思うんだよ、俺は。だから、……だから俺は怖くは、ない」
 まっすぐな眼差しに美月は思わずたじろぐ。圭介はかまわず続けた。
「たとえ最初っから結果が分かってたとしても、それを理由に逃げようとは思わない。逃げたらそこで終わりだし、あとには何も残らない。けど、頑張ればそれは単なる『0』じゃなくって、限りなく『1』に近い『0』になるだろ。結果が『0』になったとしても、かけた『1』は決して無駄にはならないんだよ。ちょっとクサいこと言うけど、人生に無駄なことなど何ひとつない、と俺は思うわけ。いいこともわるいことも、失敗も成功も何もかも全部」
「……何もかも全部」
「そう。だから俺には常に前進あるのみ。前を向いて、『1』をかける」
 
 大丈夫。
 綾瀬なら、大丈夫。

 何の裏打ちもない言葉。
 だがその言葉は思いのほか強く美月の背中を押し、そして美月は走りだした。

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