第3章 白と白と白と、そして赤

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「遅かったじゃん」
 帰るなり、部屋の前で呼び止められた。ドアノブにかけた手を引っ込め、ゆっくりと振り返る。
 Tシャツに短パンという出で立ちの美優が腕を組み、壁に寄りかかるようにして立っていた。風呂から上がったばかりなのか、髪はまだ濡れたままだった。
「なんか言いたいこと、あるんじゃないの?」
 探るような視線に、彼女が知っていることに気がついた。
 美月が黙ったままでいると、美優は苛立たしげに眉根を寄せたが、やがて何かを思いついたようにふっと口許を緩めた。唇の端がゆっくりと持ちあがる。彼女は歌でもうたうように軽やかな口調で言った。  
「あんたと寺田ってさ、まだシてなかったんだね」
 なにを? 聞くまでもない。セックスだ。
 セックスどころか、キスさえ数えるほどだ。それも唇と唇を軽く触れさせる程度の、ほとんど戯れのようなキス。
 それでも自分の初めての相手は彼だろう、と。絶対にそうでありたいという能動的な欲求ではなく、彼なんだろうなという漠然とした予想にしか過ぎないまでも。そして彼にとっての「はじめて」の相手もまた自分になるのだろうと。ほんの数時間前まではそう思っていた。
 美優と聡、二人のあいだにどのようなやりとりがあったのかはわからない。今日のことは偶発的出来事だったのだろうか。それとも。
 相変わらずの嘔吐感はいまだ身体の奥のほうに残っていたが、感情は自分でも驚くほど凪いでいた。
「どうして、したの?」
 結果、自分でもよく分からない質問となった。
 美月の漠然とした質問に、「どうして?」と、美優は鼻を鳴らして笑った。
「べっつにー。大した理由はないよ。したかったからした、それだけ。向こうもそう思ってたみたいだし? こういうのなんて言うんだっけ? 利害関係の一致?」 
 したかったからした。ただそれだけ。
 あまりにもすがすがしい、笑えるほどに明確な返答だ。
 ふ、と視線を下げる。美優の足先が目に入った。赤い爪。暗闇に踊っていた赤。彼もこの爪を見たのだろうか。きれいだと、思ったのだろうか。
「ねえ、ショック?」
 のろのろと顔を上げる。
「まさか『寺田君』がそんなことするなんて。そんな人だったなんて、って?」
 シニカルな笑みを浮かべながら、美優は首を傾かせる。
 そんな人だったなんて。
 たしかに、自分が彼に抱いていたイメージと、さっき見た、行為に没頭する彼の姿はあまりにかけ離れていて、その二つを結びつけて考えることはひどく困難だった。
 ずっと思っていた。彼は違う。他の男子たちとは全然ちがうと。
 大人びた印象も手伝い、聡は他の男子生徒たちとは一線を画していた。まるで子供と大人。そんなふうに思っていた。彼は自分よりずっと大人で、自分には見えない多くのものが見えていて、いわゆるその年頃の男子たちのように青臭い性衝動に身を委ねるなど。
 あはは、と美優が嘲笑する。
「ざまあ。あいつのこと、性欲のひとつもない聖人君子か何かだとでも思ってたわけ? いくらぶってたって所詮、たかだか十七の男じゃん」
 あからさまな蔑み。そして怒り。
 よく、分からない。彼女の憤りが一体どこに向けられてのものなのか。
 むかつく。美優はそう吐き捨てた。まるで苦痛にでも耐えるかのように顔を歪め、がりがりと親指の爪を噛む。それは彼女の幼い頃からの癖だ。苛立ったときの癖。きれいな爪なのにもったいない、とぼんやりと思う。
「なんか言いなさいよ。なんか言いたいこと、あるんじゃないの!?」
 美優は壁を叩き、叫んだ。美月は首を振り、踵を返した。
「あんたが」途端、美優の声が追い縋った。
「あんたが悪いんじゃない。だってあんた、見せないじゃん。身体も心ン中も、何一つ、誰にも見せようとしないじゃん!」 

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