第3章 白と白と白と、そして赤

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 その日、担任に頼まれた資料整理は思ったより時間がかかってしまい、どうせ遅刻だと、塾はさぼってしまうことに決めた。電車に乗り込み、夏の光に焼かれる家々の屋根を眺めながら考える。もうすぐ始まる夏休みのことを。
 付き合いだしてはじめての夏休みだ。何をしよう。観たかった映画がもうすぐ封切りだ。フランス映画は彼も好きだと言っていた。ショッピングにも行きたい。図書館でいっしょに課題をするのもいいかもしれない。お弁当を作っていっていっしょに食べるのもいい。隣町の花火大会にはまだ行ったことがない。浴衣、買おうかな。
 家に帰ると、玄関に男物の靴があることに気がついた。父親のものではない。美月の高校の、学校指定のローファーだ。きっと美優の彼氏だ。前に付き合っていたハイカットスニーカーの男子校生とはもう別れてしまったのだろうか。
 キッチンとリビングをのぞいてみる。母親の姿はない。そういえば今日は友人と出かけるから帰りが遅くなると言っていたことを思い出す。麦茶を飲んでから階段へと向かう。美月と美優の部屋は壁一枚を隔てて隣り合っている。たまに聞きたくもない音が響いてくることもある。
 だから着替えたら本屋か図書館にでも行って時間を潰すつもりだった。ちょうど読みたい本があったのだ。一時間もすればあのローファーの持ち主もいなくなっているだろう。
 なるべく足音を立てないよう、慎重に階段を上る。上りきってすぐのところに美優の部屋がある。いつもぴっちりと閉められているはずの扉は薄く開いていた。美月はよりいっそう慎重に足を運び、気づかれないよう、部屋の前を通り過ぎた。いや、通り過ぎようとした。
 あのとき、どうして振り返ってしまったのだろう。今でもたまにそのことを後悔することがある。気のせいだと、足を止めなければよかったのだ。そうすればせめて、あの光景を思い出しては血を吐くような思いをしなくてもすんだのに。
 声を、聞いた気がしたのだ。低く、耳触りのいい声。名前を呼ぶときにはほんの少しだけ、トーンの低くなる声。あんなところから、聞こえてくるはずのない声。
「……痛く、ない?」
「へい……き。…あ……ンっ……」
 絡みつくような乱れた声。ゆっくりと、吸い寄せられるように扉に近づく。部屋のなかは暗かった。夏の太陽は傾きかけたばかりで外はまだ十分明るいというのに、カーテンがぴっちりと閉じられているせいだ。
「ね、……お願い。もっと、」
 ぐらり、と世界が揺れた気がした。ちがう。揺れているのはちがうものだ。薄暗い部屋の隅に置かれたベッド。ヘッドボードはなくマットレスに脚だけがついたシンプルなもの。美月の部屋にあるのとまったく同じタイプのものだ。ぎ、ぎ、と苦しそうな軋んだ音をたてている。
 それは、なんだか奇妙なオブジェのようにも見えた。大きな背中。両端から脚が生えている。白い、なめらかな肌。動きに合わせ、宙に浮いたその足もまたちいさく揺れる。ゆらゆら、ゆらゆら。
 眩暈と吐き気は一気に襲いきた。
 そのあと、どうやって家を出てきたのかは覚えていない。気がつくと、さっき帰って来た道を逆に、半ば前のめりになるようにしてたどっていた。喉の奥のほうが苦しくて、ひどく胃が痛んだ。
 とある大手家電量販店のトイレへと駆け込み、吐いた。吐いて、吐いて、胃のなかが空っぽになっても、猛烈な吐き気はなかなか収まらなかった。吐いているあいだじゅう、瞼の裏で、赤いピカピカのネイルがきれいに施された爪先がゆらゆらと揺れていた。ずっと、揺れていた。

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