第2章 五月雨の深呼吸

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「おい、何をしてる!」
 突然、鋭い声が響き渡った。空気を震わせるような怒号だ。声は階段の上のほうから聞こえた。美月の身体をまさぐっていた男の手がハッと止まる。
「たすけて!」
 あらん限りの力を腹部に込めて、声を張り上げた。ちり、と右の頬に鋭い痛みが走り、直後、身体の上から重みが消え去った。荒々しく階段を駆け降りる音と、慌てたように逃げ去る男の足音が交錯する。
「おい、待て!」
 目の前を、物凄い勢いで影が駆け抜けて行った。遠ざかっていく足音が天井を伝って落ちてくる。力の入らない身体を引き摺るようにして起こし、薄暗い通路に目をこらす。視界は少し、ぼやけていた。
 やがて背の高い影が戻ってきた。そのシルエットには見覚えがあった。あの男にいいように身体を弄られながら、助けを求め、脳裏に思い浮かべたのは、ただ一人だ。
 だけど、だってまさか、そんなこと。そんな都合のいいことなんて。
 彼は、美月の目の前で足を止めると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。眼鏡のレンズ越しに目が合った。それでもまだ信じられず、瞬きさえ忘れてじっと見ていると、「綾瀬?」と。閉ざされた空間で、声が反響する。
「せんせ……?」
「大丈夫か? どっか怪我とかしてないか?」
 走ったためか、荒い呼吸のまま彼が──雅哉が言葉を繋ぐ。彼は見たこともないような表情をしていた。ひと言では言い表せないような。焦りだとか怒りだとか悲しみだとか、そんな、何もかもがごちゃ混ぜになったような複雑な表情だ。
 大丈夫です、と笑ったつもりだった。だが、強張った頬はうまく表情をつくれなかった。それどころか、鼻の奥にじんわりとした痺れを感じ、慌てて俯く。
「だ、だいじょうぶです」
 声は無様にひび割れた。
「すみません。ご迷惑をおかけし、」
 言いかけた言葉は、半端に途切れた。
「アホ」
 声が、すぐそばで聞こえた。何が起こったのか。混乱した頭では今の状況をうまく処理しきれない。頬に温かいものを感じる。頬だけじゃない。肩と腕と、それから背中にも。美月の身体は、雅哉の腕のなかにあった。
「あほか」 
 もう一度、雅哉が言う。何だかとても懐かしい響きだった。そういえば初めて会った時もそうやって詰られたことを思い出す。
「迷惑だなんだって、そんなこと言ってるような状況じゃないだろ。もし、もしも俺が来るのがもう少し遅れてたら、」
 声は怒っているように聞こえた。だが、そうじゃないことはよく分かっている。
 ふと、自分の足元が視界に入った。捲れ上がったスカートの下から太腿が露わになっている。ふいに男の手の感触がよみがえり、ぞくりと背筋を冷たいものが這いのぼった。じっとりと粘つくような掌。肌の上をナメクジが這い回っているような気持ちの悪さだった。
 突如、はげしい悪寒に襲われた。真冬の、寒空の下にぽんと身ひとつで放り出されたかのような。身体の震えが止まらない。やわらかく美月の身体を包んでいた腕に、力がこもった。
「怖かったな」
 ぽん、と頭の後ろをやさしく叩かれる。
「我慢しなくていいから」
 そのまま押し付けるようにして頭を抱えられる。シャツからは、煙草の匂いがした。
「泣きたかったら泣け」
 そうやって、くしゃりと頭を撫でられた瞬間、うああ、と涙といっしょに声が溢れ出した。自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
 怖かった。どうしようもないくらい怖かったのだ。
 何もかも、吐きだしてしまいたかった。忘れてしまいたかった。
 ちいさな子をあやすように、とんとん、と一定のリズムで背中が叩かれる。いやらしく背中を撫でまわしていたあの男の手の感触は、震えと共に次第に薄れていった。あとに残ったのは安堵とぬくもり。やがて嗚咽が啜り泣きに変わったころ、
「間に合って、よかった」
 ぽつん、と落とされた言葉に、胸の奥のほうが小さく震えた。

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