第2章 五月雨の深呼吸

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「送って行くか?」
 玄関から出ると、外はいつの間にか鈍色に沈んでいた。   
「駅まで近いし、みんないっしょだから大丈夫だよ」
「気をつけて帰れよ。そしておまえら、二度と来んな」
「えー、ひどーい」
「ほら、エレベーター呼んで来い」
 雅哉は麻衣と紗枝を玄関先から追い出すと、靴の留め具がうまくはまらずもたついていた美月を振り返った。
「綾瀬」
「あ、はい。すみません」
 慌てて立ちあがる。
「いや、そうじゃなくて」
 雅哉の視線を辿り、顔を下に向ける。あ、と思い、右手を掲げた。
「もう、大丈夫ですよ」 
 火傷をしたところはまだ微かに熱と痛みを持っていてが、耐えられないほどではない。二、三日もすれば赤みも引くだろう。
 ならよかった、と雅哉は安堵の息を吐く。
「それからメシ、すごくうまかったよ。ありがとうな」  
 眼鏡の奥の目は、やわらかな色を湛えていた。
「いえ、あの、よかった……です」
 恥ずかしさに顔を伏せる。  
「こちらこそ、急に押し掛けたりなんかしてすみませんでした」
 今更ながら頭を下げる。まあ、その、と雅哉は耳の後ろを掻いた。
「意外に悪くはなかったよ。みなでわいわいメシ食うのも、な」 
 すこし照れ臭そうな顔が何だかとても眩しくて、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような気がして、
「先生、そんなこと言ったら彼女たち、きっと毎週のように来ちゃいますよ」
 それから少し、泣きたくなった。


 予報通り午後から降り始めた雨は街をしっとりと濡らしていた。暗く重たそうな雲からは小さな雨粒が絶え間なく落ちている。
 カラオケへ行こうという二人の誘いを予備校があるからと断り、ひとり、駅へと向かう。本当は、今日は諒子の店に行くことになっている。構内で時刻表を確認すると電は出たばかりだった。次の電車を待つより、バスに乗ったほうが早そうだ。
 反対側のバスターミナルへ行くため、地下通路へと向かう。ふだんそこを利用することはあまりないのだが、思ったより遅くなってしまったため、仕方ない。
 昼間でも薄暗く人通りが少ないそこは入口付近からしてじめっとしていて、何ともいえない、いやな雰囲気を醸し出している。
 通路の降り口に立つ。階段の底から、何かが唸るような声が聞こえてくる。きっと、風が抜ける音だろう。そう言い聞かせ、ぱんぱん、と水滴を弾いてから傘を畳む。
 吹き込んだ雨で階段は濡れていた。滑らないように慎重に足を運ぶ。どこからか雨が漏れているのか、薄汚れた壁にも水が滲み、あちらこちらに奇妙な模様を作っている。かんかんかん、と踵がコンクリート製の階段を蹴る音はやけに高く反響し、天井では弱った照明がちかちかと瞬いていた。
 昔観た、ホラー映画のワンシーンが脳裏をよぎる。歩くスピードは自然と増した。はやく、はやく。何かに追い立てられるように、半ば走るようにして階段を下りる。
 そして、爪先が一番底を捉えた瞬間だった。だだだ、という凄まじい音が迫り来た。え、と振り返る。何かが視界を横切り、直後、大きな黒い影に覆われた。
 何が起こったのか分からなかった。きつい匂いが鼻をつく。数日間、風呂に入っていないような脂臭い頭の匂い。男だ。男に抱きしめられている。
「……ああ、いい匂いだ」
 耳元で、にちゃりと粘ついた唾液の音がした。ぞわりと全身が総毛立つ。大きな手のひらが、ゆっくりと背中を撫で上げる。ひくり、と喉の奥が震えた。だが、それだけだ。恐怖に凍り付いた喉は、悲鳴さえも凍らせてしまった。
 手から滑り落ちた傘は、思いのほか大きな音を立てた。男の腕がわずかに怯んだ隙に、男の胸を思い切り突き飛ばし、走りだす。数歩行ったところで脚がもつれ、倒れ込んだ。すかさず男が覆いかぶさってくる。
「……や、やめ、」
 辛うじて絞り出した声は、男の荒い息に掻き消された。必死に身を捩るが、びくともしない。それほど大柄ではないとはいえ、上から男の体重をかけられた状態では身動きひとつ叶わなかった。逃げられない。その事実に、目の前が一気に暗転する。嫌だ。スカートの裾から手が潜り込んでくる。いやだ。助けて。太腿のあたりに、何か硬いものが当たる。その正体に思い至り、おぞましさに全身に震えが走った。たすけて。ワンピースの裾がたくし上げられる。たすけて。たすけて。声にならない悲鳴を嘲笑うかのように、汗ばんだ手のひらは、ゆっくりと太腿の裏側を撫で上げた。

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