第2章 五月雨の深呼吸

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 車で家まで送ってもらうことになった。車は地下通路を出てすぐ、エンジンがかかったまま、半ば歩道に乗り上げるような形で停められていた。正確な車種はよく分からないが、わりと大きなSUV車だ。
 ちょっと待ってろ、と美月を先に助手席に乗せてから、雅哉は近くの自動販売機に走った。
「これでよかったか?」
 手渡されたのはホットのミルクティだった。礼を言い、受け取る。冷たくなっていた手のひらに、それは痺れるように熱く感じた。
 それとこれ、と雅哉がドアポケットから何かを取り出す。差し出されたのは美月の携帯電話だった。 
「うちに忘れてったろ」
 言われて始めて気がついた。そういえば料理をする際、タイマー代わりに使い、そのあと仕舞った記憶はなかった。
「ありがとう……ございます」
「それのおかげだな」
 車を発進させてから、雅哉が言う。
「それに気がついて慌てて追いかけたんだ。駅のほうに車を回そうとして、たまたま目にした。おまえが地下通路に入ってくの。それで、そのあとをついていく男の姿があって、なんかいやーな予感がしてさ」 
「そうだった……んですか」 
「あそこはさ、見ての通り、駅からちょっと離れてて人目につきにくいし、不審者がちょくちょく出るって話も聞いてる。だからできればああいう場所は……いや、できれば、じゃなくて、ああいう場所は今後絶対に避けろ」
 いいな、と強い口調で念押しされ、はい、と頷くよりほかない。そして、携帯を鞄に仕舞おうとした美月は、あ、と小さく声を上げた。
「あ、あの、ちょっと電話、かけてもいいですか?」
「ん? ああ」
 携帯のアドレスを呼び出し、少し考え、店のほうへと電話をする。開店時間まではまだ少し間があるが、携帯はきっともうオフにしているだろう。数コールで本人が出た。よかった、と安堵の息を吐く。本人以外だったら、取次がすこし面倒だ。
「あ、あの、綾瀬です。すみませんが今日は、その、体調が悪いので休ませてもらってもいいですか?」
『え? 美月?』
 よそよそしく話す美月に諒子が不審げな声を出す。電話の向こうから、店内のBGMが聞こえる。ちら、と雅哉を見るが気づかれてはなさそうだった。
「あの、あとでまた連絡します」
 幸い、諒子は察してくれたらしかった。
『わかった。ちゃんとあとで事情聞かせて』
「はい。どうもすみません」
 心のなかで礼を言う。
「予備校か?」
 電話を切ると、すかさず雅哉が声をかけてきた。
「あ、はい」 
「毎日行ってるのか?」
「いえ、毎日では、ないですけど」
 後ろめたさに、声は自然と尻すぼみになる。
「まあ、考えてみれば受験生だしなー。まだ皆、それほど緊張感もなさそうだけど。今日の二人、相良と宮地あたりなんかとくに、な」
 笑い混じりに雅哉が言う。
「そうですね」
 美月もまた笑って返しながら、自己嫌悪に泣きたくなった。
 美月の通う高校は県内でも有数の進学校だ。勉学の妨げになる、とよほどの家庭の事情でもない限り、アルバイトは全面的に禁止されている。美月がアルバイトをしていることは誰も知らない。誰にも、言えない。
 すらすらと、それこそ呼吸をするように嘘を吐く自分に、吐くことができてしまう自分に心底嫌気がさす。
 嘘ばかり。何もかも。
 何枚も何枚も嘘を貼りつけて。塗りたくって。
 呼吸さえ、うまくできないほどに。
 
 それきり、会話は途切れる。
 外ではまだ、雨が降っていた。車を、街を、行き交う人々をそっと包み込むように。霧のような雨が静かに、静かに降りつもっている。車内ではエンジンの音と、ワイパーが雨粒をかき分ける音と、送風口から出るエアコンの音が不思議な協和音を奏でていた。ときおり、雅哉の長い指がとんとん、とハンドルを叩く音が合いの手のように入る。
 午前中は夏の気配が色濃かったというのに、雨が降ったせいか、気温はぐんと下がっていた。
 手に持っていた缶はほどよくぬるくなっていた。猫舌で、熱いのは少し苦手なのだ。爪を引っかけ、プルタブを引き開ける。ひと口飲み、ほう、と息をついた。それからもう一度、今度は深く深く息を吐き出した。舌が蕩けるような甘さが、身体の隅々にまで行き渡り、満たしていく。
 赤信号で停車したところで、雅哉は身を捩り、バックシートからジャケットを取った。
「少し、寒いだろ? 窓が曇るからエアコンはちょっと切れないんだ。悪いな」
 ほら、と手渡されたジャケットをおずおずと肩にかける。煙草の匂いがふわりと身体を包み込んだ。背の高い雅哉の上着は美月にはあまりに大きくて、まるで抱きしめられているようなそんな気になって。
 なぜだろう。
 さっきよりずっと、胸がどきどきした。

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