第2章 五月雨の深呼吸

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「寸胴とフライパンと菜箸、あとは?」
「えーと、もしあればトングとか」 
「……トング。それってどんなのだっけ?」
「あの、なんていうか、ほら、パン屋さんとかでパンを掴むときに使う、」
「ああ、あれか。あれならたしかここで見た気が……」
 そんなやりとりをしながら、雅哉はキッチンのあちこちから道具を探し出してきた。ふだん料理らしい料理はほとんどしないらしく、普段使いしないような道具は引っ越しの際に奥にしまい込んだままになっていたようだ。
「あと、キッチンタイマーとかあったほうがいいよな」
 ふと思いついたように雅哉が言う。美月は首を振った。
「いえ、大丈夫です。携帯のタイマー機能を使うので」
「そんなの使い勝手悪いだろ」
 言いつつ、キャビネットの引出しを開けようとする雅哉を制す。
「先生、本当に大丈夫ですから」
「けど、」
「あの、本当に。使い慣れたもののほうがいいですし」
「そうか?」
「はい」
 美月はリビングに置いていた鞄から携帯とヘアゴムを取り出した。キッチンに戻り、髪をまとめる。 
「どうする? あいつらが戻ってくるのを待つか?」
 自分たちは戦力になりそうにないから、と麻衣と紗枝は買い出し担当をかって出た。食材や調味料は思ったより揃っていた。だが、それでもやはり足りないものがあり、二人はそれを近くのスーパーに調達しに行ったのだ。
「いえ、下ごしらえだけ始めます。先生、段ボール箱のなかの野菜、どれくらいまで使って大丈夫ですか?」
「いや、どれくらいも何も、使えるだけ使ってくれ」
「いいんですか?」
「正直、参ってるんだ」
 雅哉は首の後ろを掻きながら、苦笑した。
「学生時代ならいざ知らず、未だにいろんなもん送ってきてさ。間に合ってるからいいっていうんだけどな。料理なんか滅多にしないから、しょっちゅう腐らしちまう」
「きっと心配されてるんだと思いますよ。ちゃんと食べてるんだろうか、とか」
「心配ねえ。たまに帰りゃ、鬱陶しそうにされるけどな」
 美月は段ボール箱の横にしゃがみ込んだ。
「鬱陶しいわけないじゃないですか。だってここに詰まってるのは、」
 傷がつかないようにクッション材をかませ、丁寧に、とても慎重に詰め込まれた野菜たち。それはきっと、本当ならこんな小さな箱には納まりきらないほどの彼の母親の──
「腐らせてしまっては、……もったいないです」

「美月、すごいすごいすごーい!」
 麻衣と紗枝が手を叩いて歓声を上げる。
 雅哉はなんでもいいと言うので、二人のリクエストでパスタを作った。トマトとオリーブを使ったプッタネスカだ。あとは簡単なサラダにバケットとじゃがいもの冷製スープ。
「では、まずは出資者である先生からどうぞ」  
 紗枝が仰々しく言う。雅哉はほんの少し迷惑そうに片眉を上げた。
 材料費は全て雅哉が出してくれた。アンチョビは少し値が張るものの、オリーブの実はわりと安く手に入る。ベーコンは冷蔵庫にあったし、パスタも賞味期限ぎりぎりのものがあった。それほど手出しなく作ることができた。逆に高くついたのはジュースやお菓子代だ。 
 三人の視線を受け、「食いにくい」とため息をつきつつも、雅哉はフォークを手に取った。パスタを器用にフォークに巻きつけていく。初めていっしょに食事をしたときにも思った。彼はとてもきれいな箸使いをし、とてもきれいな食べ方をする。 
 雅哉はまずはパスタを口に入れ、それから大きなトマトの塊をフォークで刺した。
 普段なら缶詰のホールトマトなり、生のトマトなりで作ったトマトソースを使うのだが、せっかくのおいしいトマトをソースにしてしまうのも勿体ないと思い、そのまま荒く切って使った。よく熟れたトマトは少し火を通しただけで、ほどよく崩れた。
 フォークに刺された赤い塊が、口のなかに消えていく。視線は、自然と吸い寄せられる。赤い舌が少し覗いて、唇についたトマトのカケラを舐めとった。鼓動が、早くなる。また、だ。あの唇に触れたときのことを、触れられたときのことを思い出した。
 恥ずかしさに視線を外す。視界の端に、寝室へと続く扉を捉えた。考えないようにしていたことがやってくる。あのベッドで、あの唇は、誰かべつの人の肌に触れたのかもしれない。ふいに、目の前が赤く染まった。
 美月は再び、雅哉を見た。まだ赤いフィルターのかかった画面のなかで、彼は口のなかのものをじっくり味わうように咀嚼し、飲み込んだ。首の隆起がその動作に合わせて上下する。唇が開く。
「うまい」
「そう……ですか?」
「ああ、すごく」
 そう言って雅哉は笑った。
 赤い色がはらりと剥がれ落ちる。うまい。そのたったひと言が、赤い色に滲んだ視界をあっという間にクリアにしてしまった。
 自分の単純さに、笑えた。

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