第2章 五月雨の深呼吸

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「あー、お腹空いたー」
 三度目の勝負がついたところでトランプを置き、麻衣が言った。時計の針はちょうど十二時過ぎを指したところだった。
「せんせ、私、何かおいしーもの食べたいなあ」
 紗枝が窓を開け、ベランダで煙草をふかしていた雅哉に声をかける。麻衣がすかさず「私も」と同調した。
「おまえら、さっきケーキ食ったばっかだろうが」 
 煙草の火を灰皿代わりの空き缶の縁で揉み消しながら、雅哉は呆れた声を出した。お土産に、と持ってきたケーキは結局、三人で分けて食べた。よく聞く酒を飲む人間の嗜好の例に漏れず、雅哉は甘いものが苦手らしい。
「ケーキは別腹だし。ご飯用のお腹はまだ空っぽのままですよーだ」
「んじゃ、さっさとどっかに食いに行け」
 雅哉はもう一本煙草を取り出し、火をつけた。ゆっくりと吐き出された煙が、灰色の空に吸い込まれていく。
「うんうん。どっか食べに行こう。おいしーもの」
「パスタとかいいよね」
「あー、いいいい!」 
「先生、どっかいいとこ知らない? そんなに高いとこじゃなくてもいいよ。なんならファミレスでも全然オッケー。給料前だしね」
 紗枝の言葉に、雅哉が顔を顰める。
「あほか。誰がおまえらをメシ食いに連れてくっつった。自分らで行けって言ったんだよ。んで、そのまま帰ってくんな。俺はまた寝る」
「えーえーえー、なにそれー。あり得ないし」 
「ほんと、あり得ない!」 
 そう言って身を乗り出す二人を窘め、美月は雅哉を見た。
「先生はお昼、どうされるんですか?」
 雅哉はベランダの手すりに凭れ、煙草を口の端に咥えながら肩を竦めた。
「ま、適当にカップラーメンでも食うさ」
 そして、あ、と何かを思い出したように声を出すと、煙草を空き缶に突っ込み、部屋の中へと入ってきた。三人が姿を追うなか、雅哉はキッチンへと向かう。ほどなく戻って来た雅哉の腕には大きな段ボール箱が一つ。冷蔵庫の前に置かれていたものだ。床に置くときには、どすんと大きな音がした。かなりの重量がありそうだ。
「おまえら、こんなかで要るもんあったら持って帰れ」
 蓋の開けられた段ボール箱からは様々な色が溢れ出してきた。
「ちょうどさっき、おまえらが来る直前に届いたんだよ。実家からな」
 キャベツ、トマト、人参にピーマンなど。なかにはぎっしりと野菜が詰まっていた。
「すごいですね。先生のご実家ってもしかして、」    
 美月が顔を上げると、農家じゃない、と雅哉は笑った。
「ただ最近、近所で農家やってるとこから、形が悪かったりちょっと傷が入ったりして売り物にならないようなのを格安で買ってるらしくってさ」
 美月はトマトをひとつ、手に取ってみた。たしかに形は少し歪だが、よく熟れておいしそうだ。
「ここ」
 ひっくり返したトマトのお尻の部分、放射線状に入った筋を指差す。
「ここの星がくっきりしてるトマトって甘くておいしいらしいですよ」
 へえ、と雅哉が美月の手元を覗き込んだ。途端、強い煙草の匂いに包み込まれる。美月は思わず息を呑んだ。
「せんせー、でもさ、ご飯食べに行くのに野菜持って歩けないし」
 麻衣は毛先にカールのかかった髪を指先でくるくると弄りながら口を尖らせた。
「いいだろべつに」
「いやいや、よくないって」
「これ、無農薬らしいぞ。健康にもいいし、こんないい野菜持って帰ったらおまえたちの母親も喜ぶだろ。ついでに俺も助かる」
「いや、せんせ、順番が変だから! 『俺が助かる』はついでじゃないじゃん。私たちの健康とか、お母さんが喜ぶとか、そっちのが思いっきり付け足しじゃん」 
「よし、ビニール袋がいるな」
 麻衣の抗議の声を無視して雅哉は立ち上がった。手に持ったままだったトマトを段ボール箱に戻そうとした美月はふと、あることを思いついた。
 雅哉が美月たちをさっさと追い返そうとしていることは明白で、突然押しかけた自分たちがそれに対して反論できる立場にないことは重々承知している。だから、自分が今思いついたことも彼にしてみればおそらく迷惑にしかならないことも。けど、
「あの、先生、」
 思い切って声をかける。雅哉が振り返った。段ボール箱の縁にかけた手に、ぎゅっと力を込める。
「この野菜を使って私が何か作っちゃ……だめですか?」
 まだここにいたい。帰りたくない。
 身勝手なその欲求は、思いのほか強く美月の背中を押した。

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