第2章 五月雨の深呼吸

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「美月ー、また来たよ、彼」
 振り向くと、校舎の影からすらりと高いシルエットがのぞいたところだった。圭介だ。ズボンのポケットに手を突っ込み、周囲をぐるりと見回す。植込みの陰にいるため、向こうからこちらは見えていないようだ。
「おー……」
「ちょ、やめてよ」
 手を挙げ、合図しようとする麻衣の腕を慌てて引く。
「えー、なんでよ。いいじゃん」
 ここ最近、圭介は頻繁に美月のもとを訪れていた。休み時間、昼休み、放課後。とにかく暇を見つけてはやってくる。ただでさえ目立つ彼のこういった行動は皆の注目の的となっていた。
 必然的に相当数の女子生徒の反感を買う羽目になった。もちろん、美優を含め。元々彼女との会話は少なかったが、今では目を合わすことすらなくなった。
 正直、迷惑以外の何ものでもない。圭介本人にも言った。やめてほしい、と。だが、美月の訴えに耳を貸すつもりはまったくないらしい。何か言われるってんなら俺が守ってやる。──返す言葉が見つからない。 
 静かに過ごしたいという美月のささやかな願いは少しずつ綻びを見せ始めている。糸は解けていく一方で、結び直すことはすでに難しくなっていた。高校生活も残り一年という今になって、だ。本当に、頭が痛い。
「美月ってば、何が不満なのよー。いいじゃん、彼。顔はいいし、面白いし、成績はまあ、……うん、ってかんじだけど、サッカーずっと頑張ってきた人だからそこはまあ大目に見てあげるとして」
 箸を片手に麻衣が熱弁をふるう。麻衣は彼に対してとても好意的だ。というより、美月を除く大多数の生徒がきっとそうなのだ。
 彼の存在を知ってから気がついた。圭介は常に輪の中心にいた。男子女子問わず。
 顔がいいだとか、サッカーが上手いだとか、たんにそういったことだけが理由ではないようだ。誰に対しても区別なく気さくで、明るく人懐こい。彼がモテるのもたしかに頷けるし、麻衣が言うことも分かる。分かるのだが。
「相手がどういう人であれ関係ないよ。私、そういうことに今、時間を割きたくないし」
 麻衣が箸を置き、黙る。視線を感じ、なに? と尋ねる。
「ねえ、美月、もしかしてまだあのこと、」
 そのときだ。
「見ーつけた」
 頭上から軽快な声が割り込んだ。確認するまでもない。見つかってしまった。
「いっしょにいい?」
 圭介が手に持ったビニール袋を掲げて見せる。
「あいにくもう定員オーバー」
 冷たく言い放つが、圭介はあっという間に植え込みを回り込むと当然のように美月の横を陣取り、すとん、と腰を落とした。
 売店で買ってきたらしい焼きそばパン、コロッケパン、かつサンド、メロンパンが袋から次々と出され、並べられていく。圭介はいただきます、と手を合わせると、さっそくかつサンドにかぶりついた。
「黒川君、毎度のことながらすごい量だね」
 麻衣が驚きの声をあげる。
「今日はお弁当はないの?」
「弁当は二時間目の終わりにもう食った」
 聞くだけで胸焼けのするようなことをさらっと言う。
 瞬く間にかつサンドを平らげてしまった圭介は、さっと手を伸ばすと、美月の弁当箱からウィンナーを攫っていった。
「ん、うまいなこのケチャップウィンナー。なんかカレーみたいな味する」
「ソテーするとき、カレー粉少し混ぜてる」
 ため息をつき、端的に説明すると、圭介はへえ、と指についたケチャップをぺろりと舐めた。 
「なあ、今度さ、俺に弁当作ってきてよ」
「いや」
「つれないなあ」
「だったら他をあたったらいいじゃない。喜んで作ってくれる女の子はたくさんいるんじゃない?」
 にこりと笑みを浮かべて言う。圭介は、えー、と心底不満そうな声を出した。
「他の子じゃ意味ないやん。綾瀬のじゃなきゃさー」
「作らないから」
「えー、どうしても?」
「どうしても」
「なんで?」
「作りたくないから」
「うわ、直球来たー」
 言いながら、圭介は顔面にボールがぶつかったような仕草をする。
「でもさ、そうやってツンケンされるのもけっこうそそられるかも」
「は?」
 思わず箸を落としそうになる。
「俺、じつはマゾだったんかな。あ、その嫌悪感たっぷりの顔もいいな」
 胡坐をかいた脚に頬杖をつき、圭介が横から顔を覗き込んでくる。美月の眉間の皺はさらに深くなった。
「あはは、やっぱ黒川君っておっもしろいわー」
 二人のやりとりを面白そうに眺めていた麻衣がからからと笑う。
 面白くない。美月は頭を抱えた。
 ひとしきり笑ったあと、そういえばさ、と麻衣が口を開く。
「きのう私、進藤先生見たんだー」
 その名前に、考えるより先にぴくりと身体が反応してしまう。美月は気づかれないように息を呑んだ。横顔に視線を感じる。圭介のものだ。美月はその視線に気づかないふりをした。
「へえ、どこで?」
 相槌を打ったのは圭介だった。
「駅の近くの飲み屋街。家族でファミレス行った帰りでさ、車からだったから声はかけらんなかったんだけど、」
 それがさ、と麻衣は大きく身を乗り出した。なんとなく、嫌な予感がした。
「女の人といっしょだったんだよね。それもすごくきれいなひと」
 へえ、そうなんだ、と答えた自分の声はどこかとても遠いところで聞こえた。
「ちらっとしか見えなかったんだけどね。でも、かなり親密そうでさ。あれはやっぱり、アレだよね」 
 喋る麻衣の声もまた遠い。耳の奥の鈍い音が邪魔をしているせいだ。それが自分の心臓の音だと気がついたのは少ししてからだ。うるさいくらいに鳴っている。もしかして外にまで聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに。うるさい。音は鳴りやまない。
 そんなの、分かってたことじゃない。
 誰かがそっと耳元で囁いた。
 一人だと思うほうがおかしいんじゃない?
 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。大声で叫びだしそうになる。
 聞きたくない。

 なにも、聞きたくない。

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