第2章 五月雨の深呼吸

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「もう帰りまーす」
 軽やかな口調で、圭介が言った。そのタイミングで、掴まれていた腕がようやく解放される。美月は急いで荷物を片付けると、失礼します、と頭を下げ、雅哉がいるほうとは反対側の入り口へと向かった。一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
「綾瀬!」
 廊下に飛び出したと同時に、雅哉が呼んだ。おそるおそる振り返る。日誌、と美月が片手に抱えた学級日誌を雅哉が顎で示す。
「わざわざ職員室行かなくてもここで貰うけど?」
「あ、はい」
 仕方なく、引き返す。
「ごくろーさん」
 差し出した学級日誌を受け取り、雅哉はちら、と視線を教室内へと移した。そこにはまだ、圭介がいた。雅哉は再び視線を戻すと、ひそめた声で言った。
「もし、なんか困ってることあるなら言えよ?」 
 はい、と頷き、でも大丈夫です、と唇の端を上げる。うまく、笑えただろうか。自信は微塵もない。
「さようなら」
 頭を下げ、今度こそ足早に立ち去る。階段を一気に駆け下り、下駄箱にたどり着いたところで、振り返る。
「いったい、何だっていうの?」
 荒い呼吸のまま、尋ねる。圭介はついてきていた。
「何って、なにが?」
 逆に質問で返される。息ひとつ乱れていないのが、何だか無性に腹立たしい。
「どうして私にかまうの。もう放っといてよ」 
「どうして、って」
 圭介はがしがしと乱暴に頭を掻いた。
「正直言うとさ、俺もあんたのこと、顔くらいしか知らなかったんだよね。綾瀬美優と双子だって知ったのもつい最近のことだし」
 テスト週間中で部活動も休みのため、校舎内にはほとんどひと気がない。埃の匂いのする昇降口で、声はやけに響いて聞こえる。
「ちょっと前にさ、部活中に膝、やったんだ」
 言いながら、右膝をぽん、と叩く。
「そんでたまにひどく痛む、つって保健室でさぼったりしてたんだけど。あんときも、階段下りようとして、そうしたらそこには、さ、」
 と、今度はその手で美月を指差す。
「なんとなく入り込めない空気、っていうの? なんか、かち合っちゃまずいかなって、進藤が行ったあとに保健室行ったんだけど、なんか中から泣き声聞こえてくるしさ」
 最悪だ。羞恥に一気に顔が熱くなる。全部、見られていた。言葉が、出てこない。俯いた美月に、追い打ちをかけるように圭介の言葉が降ってくる。
「あんた、進藤のこと好きだろ」
「ちがう!」
 顔を上げ、ほとんど反射的に叫んでいた。
 思わぬ声の大きさに、だろうか。圭介の目は驚きに見開かれていた。自分でも驚いた。こんなふうに声を荒げたことは、ここ最近の記憶では一度も、ない。それだけ必死だったともいえる。
 自分の雅哉に対する感情は、誰にも打ち明けてはいない。麻衣にも、もちろん紗枝にも。気づかれてもいないはずだった。誰にも知られたくなかった。万が一にでもあの夜に繋がる可能性のあることは、ひとつだって零すつもりはなかった。 
「そんなことあるわけないでしょ。あの人は教師で、私は生徒で、だから、……だからそんなこと……あり得ない」
 また、あの場所がじくじくと痛む。まるで小さな引っ掻き傷のようだ。自らの手で何度も何度もかさぶたを剥がして、傷は一向に治らない。ふふ、と思わず笑みがこぼれる。本当に、バカみたいだ。
 圭介はふうん、と首に手を当てる。
「教師とか生徒とか、そんなん、好きになったらあんまカンケーないと思うけどね、俺は」  
「だから好きじゃないって」
 大袈裟にため息をついて見せる。
 もういい? と、圭介の横を通り過ぎようとしたところで、ばん、と何かに行く手を阻まれる。半袖のシャツから伸びた、黒く灼けた腕が目の前にあった。
「ま、本当に進藤のこと好きじゃないっていうなら、かえって好都合」
「は?」
 一歩、後ずさる。
 背の高い圭介は、腕をついたまま美月の顔を覗き込むようにしながら、にっと笑った。
「だって俺、あんたのこと好きだから」

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