第2章 五月雨の深呼吸

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 何がどうしてこうなったのだろう。
 目の前の建物を見上げながら考える。高校の最寄駅から電車で二駅。駅から徒歩で十五分。外観を覆う朽葉色のタイルは薄曇りの空の下でも艶やかで、駐車場をぐるりと囲むように植えられたアイビーは若く、蔓も短い。まだできて間もないらしい単身者用のマンションだ。
「ねえ、私やっぱり」
 じり、と後ずさった美月の腕を両側から麻衣と紗枝が掴む。
「ここまで来て往生際わるーい」 
「そうそう。もういい加減観念しなって」
 反論も抵抗する間も与えられず、美月は麻衣と紗枝の二人に手を引かれ、そのままエレベーターに押し込められた。

 遡ること三十分前。美月は駅の入り口で麻衣と紗枝を待っていた。
 中間考査が終わり、三人で久々に映画でも、という話になったのだ。せっかくの週末だというのに、空は灰色の厚ぼったい雲に覆われている。予報では午後から雨だと言っていた。空気はぬるく、重たい。ワンピースの上に羽織ったカーディガンは湿気を吸い込み、肌に纏わりついた。午後といわず、雨は今にも降りだしそうだった。
「お待たせー」
 揃って遅れてやって来た二人は、映画の前に寄りたいところがあると言った。どこへかと尋ねるも結局、どこへ行くかは教えてもらえなかった。二人のあとをついていく。途中、甘い匂いを漂わせたケーキ屋に寄ってケーキをいくつか買った。紗枝は時折、携帯に出した地図と周囲の建物を照らし合わせている。どうやら初めて行く場所のようだ。
 繁華街の喧騒からは次第に離れていく。閑静な住宅街をおしゃべりをしながら歩く。広い校庭のある小学校の前を通り、公立図書館の敷地内を通り抜け、細い路地を抜けた。額に滲んだ汗をハンカチで拭う。角をいくつか曲がったところで公園にあたった。
 赤い滑り台とブランコだけ置かれた小さな児童公園だ。あまり手入れは行き届いていないようで、敷地全体が伸び放題の雑草に覆われている。公園の入り口のところにはハルジオンの花が咲いていた。
 以前、目にしたときとは印象が少し違っていた。色彩が明るい。あのとき感じたような薄暗い冬の気配はもう、片鱗さえ見つけることができない。
「美月、どうしたの?」
 突然、立ち止まった美月を、二人が振り返る。
「私、行かないから」
「でも、もうすぐそこなんだよ」
「行くなら二人で行って。私のことは気にしなくていいから」
「ちょ、待ってよ、美月」
 美月が「気づいた」ことに気がついたらしい麻衣と紗枝が、来た道を戻ろうとする美月を慌てて止めにかかる。
「ちょっとだけだから」
「そんなに長居はしないって」
「そうそう。映画はあとでちゃんと行くし」
「だから、お願い!」
 二人がかりで畳みかけられ少し怯んだところを半ば引き摺られるようにして連れて行かれる。公園を通り過ぎ少し先の角を曲がると見覚えのある建物が姿を現した。
 
 エレベーターにいち早く乗り込んだ紗枝が七階のボタンを押す。新しい建物特有の匂いを残したエレベーターは音もなくのぼっていく。息苦しさを覚える。狭いところは少し苦手だ。
 エレベーターを出て、紗枝は鞄から取り出したメモで部屋番号を確認した。七〇五号室。心のなかでそっと呟く。口に出すわけにはいかない。
 一番突き当りの角部屋。麻衣と美月を振り返った紗枝は、どこか勝ち誇った笑みを浮かべたあと、インターホンをゆっくりと押し込んだ。間延びした音が部屋のなかから聞こえる。しばらくすると施錠が解かれる音がした。薄く開かれた扉から聞こえた、「はい?」という声は少し眠たげであった。
「せんせー、おはようございまーす」
 麻衣と紗枝の声が廊下に響き渡る。
 扉の隙間からぎょっとした顔が見えた。してやったりとばかりに、麻衣と紗枝がくすくすと笑いを漏らす。その二人の肩越しにこちらを見た雅哉の顔に、またべつの種類の表情が浮かぶ。驚きと、──そして、なんだろう。よく分からない。

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