第1章 桜の花のむこうには、

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「オリーブ、それからワインと……。よし、とりあえずこれでオッケーかな」  
 バックヤードから出ると、カウンターテーブルを拭いていたこの店のオーナーである神埼諒子が「おつかれさま」と振り返った。店内には他に誰もいない。今日はいつもより少し早めに店を閉めた。月に一度行っている、在庫チェックなどの雑務整理のためだ。
 美月は一年前からここで働いている。平日の夜と、隔週で週末も。主には厨房を手伝っている。小さな店だが夜は連日ほぼ満席で、なかなかに忙しい。
「何か作ろうか?」
 尋ねると、涼子は少し考え、「出汁巻が食べたい」と言った。
 冷蔵庫のなかを覗き、食材の確認をする。諒子はいつも昼食も摂らずにフルに働き通しだ。どうせなら夕飯としてちゃんと何か作ってあげたい。
「材料あるから、オムレツとかも作れるよ」 
「ううん。出汁巻がいいな。だってあんたの作るの美味しいんだもん」
 食の細い諒子はもともとそれほど食べない。食欲がないときでも唯一喉を通るのが、出汁巻卵なのだという。
 ボウルに水と調味料を入れる。店に出すときより、出汁と砂糖は少し多めに。諒子の好みだ。さらに卵を割り入れ、箸で軽くかき混ぜる。十分に熱した卵焼き用のフライパンに流し入れると、じゅっ、と小気味のいい音がたった。なかなかいい感じだ。強火のまま、ふつふつと盛り上がってくる部分を箸で潰し、頃合いを見てくるりと返す。隣でスツールに腰掛け眺めていた諒子が、思い出すなあ、と目を細める。
「あんたのお母さんもそうやってよく作ってくれたんだ、出汁巻卵。くる、くるっと箸でひっくり返してさ。まるで魔法みたいだって思ってた。箸で持つと崩れそうなくらい柔らかくて、口のなかに入れると甘いだしがじゅっとしみだしてきて」
 できあがったものを皿に盛ると、諒子はさっそく箸を伸ばし、嬉しそうに頬張った。どう? と訊くと、おいしい、と頷いた。
「美月のうちで初めて夕飯ご馳走になった日に出汁巻卵が食卓に並んでてさ。あれで私、美月のお母さんの出汁巻卵の大ファンになっちゃったんだよね。だってあんなの、うちじゃ食べたことなかった。ま、あの飲んだくれの母親じゃ、作り方どころかそんな食べ物があることさえ知ってたかどうかあやしいところだけどね」
 たしか美月がまだ母親のお腹にいる頃の話だ。その時のことは、父親から聞いた覚えがある。
 おまえの母さんときたら犬猫じゃ飽き足らず、とうとう人間の子供まで拾ってきてさ。これがまた生意気で、全然懐かないときてな。
「それから週三回は美月んちでご飯食べさせてもらうようになったけど、毎回、出汁巻じゃなきゃやだって駄々こねてさ。『じゃあ、諒子ちゃん、土曜日の卵が安い日はいっしょにスーパー行くよ。一人一パックしか買えないんだからね』って、強制的に買い物付き合わされてさ」
「土曜日は卵の日、かあ」懐かしさに頬が緩む。  
 そういえばさ、と諒子が箸を置いた。
「志保が言ってたよ。『彩華ちゃん』、うちで本格的に働く気ないかなーって。お料理すごく好評だったし、彩華ちゃんに会いたいって客が未だに来るってさ。人づてに聞いて、わざわざ来た人もいるってよー。バイト代もっともっと弾むし、だって」
 志保というのは諒子の友人だ。どうしても、と頼み込まれ、一週間だけという約束で店の手伝いを引き受けはしたが、川崎のことを抜きにしてもやはり自分には向いていない、とつくづく思った。
「『彩華』はもう仕事を辞めました、って伝えておいて」
「ま、うちも美月に抜けられると困るしね」と諒子が頷いた。

 諒子が食べている横で洗い物をしていると、「携帯、鳴ってるよ」と、諒子が美月の鞄を取って寄越した。紗枝からだ。
「もしもし?」
『あ、美月? 今、大丈夫?』
「うん、いいよ。どうかした?」
『明日の土曜日さ、なんか用事ある?』
「あした? えっと、時間にもよるけど」
 紗枝の電話はコンパの誘いだった。中学時代の友人がいっている高校の男子生徒との。メンバーが足りないのだという。美月は予定がある、と断り、電話を切った。
「電話、何だって?」
「友達がね、明日合コンするから行かないかって」
 へえ、と諒子は最後の出汁巻卵を頬張った。ほとんど噛まずに飲み込んでから、水の入ったグラスに口をつける。
「合コン、いいねー。いいじゃん、行けば」
 諒子は戯れにグラスを揺らしている。水はくるくるとガラスの縁に沿ってまわる。
「だって明日はバイトに入る日だし」
「いいよ、一日くらい休んだって。たまには羽目外して遊んできたら?」
「……でも、カラオケなんだって」
 諒子の手の動きが止まった。弧を描いていた水が方向を失い、大きく波打つ。
「ああ、そっか。カラオケ、苦手だもんね」 
「でも、ちょっとびっくりした」
 空になった皿を取り、スポンジを滑らせる。
「びっくりしたって、何が?」  
「さっき電話くれた子ね、私たちの担任の先生のファンクラブを作ったの。今年うちに来た若い先生の」
「へえ、ファンクラブか、すごいね。なかなかバイタリティ溢れてる子だね」
「そうなの。先生、先生ってずっと追い掛けてて。だから、ね、……ていうか、なのに合コンかあ、って」
「ああ、なるほどね。美月としてはそれが納得できないと。浮気者ーってかんじ?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
 ふいに諒子の手が伸びてきて、かわいいなー、と頭を抱えられる。手にしていたグラスを落としそうになり、慌ててシンクを掴む。
「美月は純真だねえ。あー、もう、かわいい」  
 言いつつ、諒子は美月の髪をくしゃくしゃと掻き回した。さらには頭をぐりぐりと押し付けてくる。甘い香りがふわりと漂う。諒子がいつもつけている香水の匂いだ。
「やっぱり誰しも一度は憧れるよねー。先生。若くてかっこいいならなおさら」
 ようやく美月を解放した諒子はスツールに掛け直すと、カウンターの上に立てた腕で頬杖をついた。
「諒子お姉ちゃんにも経験、ある?」
「あるよー、もちろん。教生の先生なんか、それはもうかっこよく感じたもんだわ。学校っていう特殊な空間で、何だかよく分かんないフィルターかかるんだよね。そのへんで見たらきっとそんな大したことないんだろうけど」
「あ、うん。それはなんかちょっと分かるかも」
 中学のときにクラスに来た教育実習生。見た目はそれほどかっこいいというわけではなかった。ただ、なんとなく、クラスの男子生徒とはちがう大人の男性にときめきのようなものを感じた記憶はある。
「でもさ、生徒にとって『先生』はやっぱり『先生』なんだよね。いくら憧れたって、教師とどうこうなるなんてまずないし。ま、逆もまた然りってやつだよね」
 胸の奥のどこかが、ちく、と痛んだ。ちいさな棘が刺さったような。
「かっこいい先生にきゃーきゃー言うのってさ、きっとアイドルに対する憧れと同じようなもんなんだよね。だからさ、その美月の友達もそこはちゃんと割り切ってるんだよ。まあ、アイドルよりかはもうちょっとだけ手は届きやすいかもしれないけど」
 だけど、届かない。シングルレバーを上げ、水を出す。まだ泡のついたグラスを水ですすぐ。ばたばたと水がシンクを叩き、泡はゆるやかに排水口に吸い込まれていく。
 棘はまだ、刺さったままだ。

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