第1章 桜の花のむこうには、

-03-

「うまそうなもん食ってるな」
 上から声が降ってきた。美月は慌てて視線を引き戻した。より鮮明になった匂いに身体が強張る。雅哉は美月のすぐ後ろにいた。
「先生、どうしたの? 宮っちたちが先生と一緒にお弁当食べるんだー、ってあちこち探し回ってたよ」
「知ってる。だから、逃げてきた。昼休みまでぴーちくぱーちくやられたらかなわんからな」
 顔は前に向けたまま、肩越しに背後をちらと見る。雅哉の手にはコンビニのビニール袋が提げられている。どうやらここで昼食を摂るつもりだったようだ。
「おまえらこそどうした。ここはいつも無人だと思ってたんだけどな」
 ぶー、と、麻衣が胸の前で腕をクロスさせる。
「ここは私たちのお気に入りの場所なんですう。先生のほうがお客さんだよ」
「そうか、そりゃ残念。絶好の昼寝ポイントを見つけたと思ったんだけどな。じゃあ、ま、邪魔するのも悪いし、他あたるかー」
 声が、匂いが、少し遠のく。痛い。胸を押さえる。そこは、さっきよりさらに強い痛みを訴えていた。
「先生さ、ここで一緒に食べたら? 今から他所行ったら、昼休み終わっちゃうでしょ」
 後ろに立つ彼の表情は見えない。全神経を背中に集中させる。息を呑み返事を待っていると、気配が動いたのが分かった。雅哉は美月のすぐ横に腰を下ろした。
「たしかに今からほかの場所探すのもかったるいしな」 
 長い脚を折り曲げ胡坐をかく。スーツの上着を脱ぐと、ビニール袋の中味を取り出した。
「先生ってさ、いつもはどこでお昼食べてるの?」
 麻衣が尋ねる。
「職員室で食ったり、ここで食ったり、いろいろかな」
 彼がこの学校に来たその日から、彼の周りにはいつも女子生徒の姿が絶えない。煩わしそうではあるものの、彼が彼女たちを邪険に扱う、ということは決してない。逆に特定の生徒を特別扱いするということもない。決してそれほど熱心な教師、というわけではない。その代わり、彼はいつも誰に対してもとても公平であった。
「綾瀬は、部活動とかはしてないのか」
だからこうして話しかけてくれる。黙ったまま、会話に参加しようともしない無愛想な生徒を気遣い、輪に入れようと。
「……あ、私は運動とかもそんなに得意じゃないし、ずっと帰宅部です」
「へえ、そうか。でもま、おまえの場合はその分、勉強面でカバーできるからな」
 それに比べておまえは、と雅哉の視線を受け、麻衣が「ちょ、なによー、先生、その目は。失礼な!」と、手を振り上げる。雅哉はおかしそうに笑った。
「先生ってさ、いつもそんな侘しいもん食べてるの?」 
 反撃、とばかりに、麻衣が雅哉の手元を覗き込み言葉を投げる。
「うるさい、黙れ」
 言いつつ、雅哉はむすびにかぶりついた。美月はさり気なさを装い、彼の朝食を視界に入れる。サンドイッチにむすびが二つと、ペットボトル入りのウーロン茶。
「先生、かーわいそ。毎日毎日そんなもんばっかで。あー、かわいそー」
「はいはい、かわいそーかわいそー」 
 相手にするのも馬鹿らしい、とばかりに雅哉が適当な相槌で流す。美月は思い切って「あの!」と、声を上げた。同時に二人の視線を感じた美月は恥ずかしさに顔を伏せつつ、これ、と弁当箱の蓋を雅哉のほうに差し出した。裏にした蓋の上にはぶりの照り焼きと金平牛蒡をのせている。
「よかったら……どうぞ」 
 雅哉が何か言う気配を感じ、慌てて「私、もうお腹いっぱいで!」と、言い添える。
「あの、捨てるのも勿体ないし、よかったら」
 さすがに言い訳がましい、か。いたたまれなくなり、いえ、いらなければいいんです、と手を引っ込めようとすると、す、と手が伸びてきて受け取った。
「うん、うまいな」
 雅哉はあっという間に両方とも平らげると、唇についた胡麻を親指で拭った。
「でしょでしょ。すごくおいしいでしょ」
 麻衣が得意気に言う。おまえが作ったんじゃないだろ、とすかさず雅哉の鋭いつっこみが入った。
「それね、美月のお手製なんだよ」
「へえ」
 視線がこちらに向けられる。美月は顔を伏せた。頬のあたりに視線を感じる。美月はますます俯き、耳から滑り落ちた髪で視界を遮った。
「綾瀬は料理も上手いんだな」
「……そんなに大したことはないです」
 声が不自然なほどに強張る。スカートに置いた手のひらは、汗をかきじっとりと濡れていた。
「目は、けっこう悪いのか?」
 唐突な質問だった。
「あ、はい」
 意味もなく、指で眼鏡のブリッジを押し上げる。度はそれほど入ってはいない。車の免許も裸眼でパスできるくらいの視力はある。そうか、と雅哉は呟いた。質問の意図を掴めない。掴めないながらも何かを期待してしまいそうで、それが怖くて、
「先生は目、どのくらい悪いんですか?」
 と返した質問で、単なる会話として済ませることにする。
「俺は相当悪いよ。正直、裸眼だと距離がほぼゼロくらいじゃないと、相手の顔の判別もできないくらい」 
「先生、コンタクトにすればいいのにー。そりゃ眼鏡も似合ってるけど、それなしにしたらもっとかっこいーよ」
 麻衣が雅哉のほうに身を乗り出す。
「これ以上モテたら困るから、これで十分」
 雅哉は冗談とも本気ともつかない口調で言い、さてと、と立ち上がった。スーツについた芝を払う。
「そろそろ、行くわ。次の授業の準備もあるしな。おまえらも授業に遅れないようにしろよ」
「先生、よかったらまたここおいでよ。ここなら人少ないし、落ち着いて食べられるんじゃない?」
 ね、美月、と麻衣から同意を求められる。たが、言葉は出ていかなかった。言葉を、見つけることができなかった。沈黙が落ちる。
「綾瀬」
 顔を上げると、そこには柔らかな笑顔があった。日差しを背後に、前髪がその目元に淡く影を落としている。ガラス越しではあったが、まなざしは、あの夜と同じだ。
「弁当、うまかったよ。ありがとうな」
 かろうじて、首を振ることしかできなかった。口を開いてしまったら、何かがこぼれ落ちてしまいそうで。美月はただ、その後ろ姿を見送った。視界の端に、何かが引っかかった。散り落ちた桜の花の残骸だ。汚く、変色している。あれほどきれいだったというのに。いずれは朽ちて土となり、そして消えてしまうのだ。跡形もなく、消えてしまうのだ。

ランキングに参加してます。
inserted by FC2 system