第1章 桜の花のむこうには、

-05-

 月曜日はいつも憂鬱だ。何もかもが重たく気怠い。なのに今日は生理の二日目までもが重なってしまい、その憂鬱さにさらに輪をかけた。今日という日が、すでに終わってしまった気分だ。窓ガラス越しに空を見、目を細める。雲ひとつない青が眩しい。気分は最悪だが、空は憎たらしいほどに晴れ渡っている。悪態のひとつでもつきたくなるくらいに。
「美月、おっはよー」
 威勢のいい声に振り返ると、「どうしたの?」と、顔を覗き込まれた。
「なんか顔色悪いよ」
 少し、貧血を起こしているのかもしれない。
「そう? 大丈夫だよ」
 笑顔を作る。ならいいけど、と麻衣はすぐ前の、空いている席に後ろ向きに座った。
「あー、もー、嫌だなあ。今日、数学の小テストだよね。私、全然勉強してないー」
 麻衣は大袈裟にため息をついた。数学は彼女の最も不得意とする教科だ。
「そういえばさ、金曜日、宮っちから電話あった? 合コンのお誘い」
「あー、うん、あったよ。断ったけど。麻衣にもあったの?」
「うん、あったよー。もちろん、私も断ったけどさ」
 麻衣はそういうことに関してはわりと潔癖だ。合コンなんてお手軽すぎる、と公言して憚らない。少女漫画を愛読書とする彼女は、そういったお手軽ではない、ちゃんと段階を踏んでの付き合いをしたいのだそうだ。
「うちの親ってさ、お見合い結婚なわけよ。だから、っていうか、なんか夫婦関係が義務的っていうかさ。だから私は絶対、恋愛結婚したいんだよね。結婚してからもラブラブでいたいもん。美月のとこはどうなの?」
「うちは恋愛結婚。母がバイトしてた喫茶店に父がお客さんとして来て、なんかよく分からないんだけど、お互い一目で『あ、この人だ』って思ったんだって」
「えー、なにそれー! 一目惚れっていうより、それはもう運命だね! まさに運命的な出会い! いーなー。私にもそんな運命的な出会いが降って来ないかなあ」
 麻衣は脱力したように、机に突っ伏した。ちょうどその時、予鈴が鳴った。


 まずいな、と思い始めたのは三時間目の終わりくらいからだ。
 朝からのじくじくとした痛みは、いよいよ本格的なものになりつつあった。下腹部は鉛でも抱えているかのように重い。薬は飲んだ。だが、いっこうに効く気配はない。むしろひどくなる一方だ。予備の薬はまだあるが、追加して飲むのは躊躇われる。以前それで盛大に吐き戻してしまったことがある。
 悩んだ挙句、保健室へと向かうことにする。麻衣の付き添いの申し出は丁重に断った。次の時間は小テストだ。
 のろのろと、廊下を壁伝いに歩く。一歩一歩がひどく重い。休んでは歩き、歩いては休む、をくり返す。一階の、校舎の端にある保健室はこの上なく遠かった。
 階段はほとんど手摺に寄りかかるようにして慎重に下りた。下り切って曲がればゴールだ。あともうすこし。そんな気の緩みが、目測を見誤らせた。ずっ、と足がステップの滑り止めを踏み越える。わ、ととっさに目を瞑るが、予期した衝撃はやってはこなかった。
「あっぶねーな」
 すぐそばで、しかも吐息さえ感じるくらいの至近距離から聞こえてきた声に、息が止まる。腹部に回された腕が視界に入った。足を踏み外し、転げ落ちそうになったところを助けられたのだ。
 考えるより先に、身体が動いた。支える腕を振り払う。そのせいでまたバランスを崩したところを、おい、と今度は腕を掴まれた。
「おまえなー」
 呆れたような声に、美月は「すみません」と頭を下げた。一瞬、ありがとうございます、のほうがよかったかとも思うが、やはり、「すみません」ともう一度言った。
 まだ、肘のあたりを掴まれたままだ。腕を引くと、手が静かに離れた。
「どうした? 具合、悪いのか?」
「……はい、すこし。すみません、次の授業休みます」   
「それはべつに構わないが。大丈夫か? 早退するなら家に連絡するけど」
「少しだけ休めば大丈夫だと思います」
「そうか」
 と屈めた身体を差し出される。肩を貸してくれようとしているのだ。
「いえ、平気です。もうすぐそこなので」
「ならせめて階段を下りるまで」
「ひとりで大丈夫ですから」
 言って、再び手摺づたいに下りはじめる。
「けど」
 腕に添えられようとした手をとっさに弾く。怯んだ手が躊躇い、そして静かに下ろされるのを視界の端で見る。口のなかに苦いものが広がっていく。
「授業、もう始まってますから行ってください。次、小テスト、なんですよね」
 お願いだから、早く行って。
「本当に大丈夫か?」
 お願い。
 唇を噛み、頷く。
「わかった。あとでまた様子見に来るから」
 ゆっくり休め、と足音が階段をのぼっていく。美月もまた階段を下りる。下り切ったところでつめていた息を吐き、振り返った。ずっと下げたままだった視線を、そこではじめて上げる。あ、とちいさく声が漏れた。
 どうして。
 瞬きも、呼吸さえも忘れ、階段のてっぺんを見る。彼が、見ていた。雅哉が、こちらを見ていた。
 どうして、って。
 そんなの決まっている。自分が階段を無事下り切るのを見届けようとしてくれたのだ。彼はやさしいから。とても、やさしい人だから。
 鼻と、目の奥がじんわりと痺れていく。だめだ。まだ、だめだ。美月は視線を断ち切り、保健室へと飛び込んだ。保健室には誰もおらず、そのことが糸を切った。
 声を抑えることさえできなかった。両手で口を塞ぐ。それでも声は漏れた。無理矢理押し込めていたものは、箍を失い、勢いよく溢れだした。心の隙間という隙間を埋め尽くし、それでも足りずに行き場を失ったものが、ずっと閉じ込めていたものが、涙といっしょにどろどろに溶け出していく。溶け出して、嗚咽といっしょに手のひらを濡らした。
 逃げて、誤魔化して、知らんふりして、必死に忘れようとした。なかったことにしようと思った。だけど、だめだった。必死に抗ったけれど、もうどうしようもなかった。逃げられない。

 彼が、好きだ。

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