第1章 桜の花のむこうには、

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 偶然再会して。そんなことありえない。
 その目算は一時間もしないうちに覆されてしまった。
 全然笑えない。
 いや、いっそ笑えるほどだった。
 なぜなら彼は全く気がつかなかったからだ。
 私だとは、まったく。
 先生、日誌持ってきました。
 ああ、ありがとう。そこに置いといてくれ。
 一瞬、目が合ったような気がした。が、彼の視線は美月の顔の上を僅かに掠めただけだった。
 割り切った関係。そう思いながらも、どこかで何かを期待してしまっていた自分が恥ずかしい。
 死ぬほど、恥ずかしい。
 ──消えて、なくなりたい。
 そんなふうにさえ、思った。


「二十五歳、担当教科は数学、血液型はA型、趣味はとくになし、好きな食べ物は焼き肉、おお、肉食男子だね。苦手な食べ物は甘いもので、えーと、それから、」
 次の授業の課題プリントに目を通していた美月の横では、クラスメイトの宮地紗枝が熱心にペンを走らせている。
「すごいね。その情報、どこで手に入れたの?」
 美月はプリントを置き、尋ねた。
「んー、まあ、色々とねー。進藤先生、なかなかそういう自分の話とかしてくれないからさ、けっこう苦労してる。でも、ま、進藤ファンクラブの力をもってすれば」
 小さなメモ帳に視線を落としたまま、紗枝が答える。
 紗枝は雅哉が美月たちのクラス担任になったその日に「進藤雅哉ファンクラブ」なるものを立ち上げてしまった。若く、見目のいい新任教師の赴任に校内中の女生徒達が湧いたのは言うまでもない。 
「そのファンクラブって、今どのくらい人が集まってるの?」 
 紗枝の視線が、初めて上がる。 
「意外」
「意外って何が?」
「美月ってそういうのあんま興味なさそうだから」
「興味なくは、ないよ」
「でもさ、美月って進藤のこと、どっちかっていうと嫌い、だよね?」
 美月はそんなこと、と曖昧に笑い、窓の外に目をやった。中庭に植えられた桜が春の風に揺れている。花はもうすっかり落ち、代わりに枝々を彩るのは鮮やかな新緑だ。辺り一面、葉の色をうつした光が氾濫している。目を閉じ、意識を集中する。風が葉を揺らす微かな音が鼓膜に届く。その直後、近くで甲高い笑い声が弾けた。
「えー、なにそれー、やだー」
 声は教室の反対側からだ。釣られるようにして振り返る。机に腰掛け、男子生徒とじゃれ合う女子生徒の姿が目に入った。紗枝もまた同じほうを見、口を開いた。 
「あのさ、ずっと思ってたんだけど。美月ってさ、もしかして綾瀬と、いや、えーと、綾瀬美優と、あんま仲良くない?」
「……どうして?」
「どうして、って。だってさ、あんたたちが一緒にいるとこほとんど見たことないもん。帰るときも、学校に来るときでさえ別々。あんたたち姉妹じゃん? それなのにさ、なんか、あまりに不自然っていうか」
 不自然、か。たしかにそうかもしれない。私たちの関係は不自然で、そしてとても曖昧でもある。
「でも、嫌いなわけじゃないよ」
「そう?」
「うん」
 紗枝はふうん、と言いつつ、またシャーペンを手にとった。美月は頬杖をつき、目を瞑った。窓からのやわらかな風が頬にあたる。春の匂いがした。


「お弁当、どこで食べる?」
「天気いいし、いつものとこ行かない?」 
「そうだね」 
 中庭を抜け、第二校舎の裏手へとまわる。案の定、今日も先客はいない。
 ここはいつもとても静かで、昼休みの喧騒とはほど遠い。青々した芝生の上にはあちこちで木漏れ日が踊っていた。一番大きな欅の木の下、二人してさっそく弁当を広げる。 
「うわー。今日もやっぱり美月のお弁当おいしそう」
 麻衣が歓声を上げる。
「もちろん今日も自作なんだよね?」
「うん」
「ほんと美月すごいよ。私にはとても真似できない。だって美月のお弁当ってさ、うちの母さんが作る弁当よりはるかにおいしいんだもん。ていうか、そのへんのお弁当屋さんのより絶対おいしいと思う」
「それはさすがに褒めすぎだよ」
 言いつつ、自然と頬は緩む。誉められるのは素直に嬉しかった。料理をするのは昔から好きだ。毎日の弁当作りも苦に思ったことはない。それは調理師免許を持っていた母親の影響もあるかもしれない。
「はい、じゃあこれ」
「ありがと。どれでも好きなのとって」
「うーん、じゃあ、私はねえ、」 
 いつものようにお互いの弁当のおかずを一品ずつ取りかえる。麻衣のくれた、きのうの夕飯の残りだというミニハンバーグをさっそく口に入れる。使っている材料はほとんど同じはずなのに、自分が作ったものとは食感も味もまるで違う。おいしい。
「このハンバーグ、すごくふわふわしてる」
「うん、なかなかの出来でしょ。うちのは特製豆腐入りハンバーグ! ダイエットにもなるし、おいしいし、かさ増しにもなるし、一石三鳥なのですよ」
 他愛もないお喋りに花を咲かせながら、ゆっくりと箸を運ぶ。とても穏やかな時間だ。水筒から注いだお茶を飲んでいると、あ、と麻衣が声を上げた。ほんの少し、辺りに漂う青臭さにべつの匂いが混じった。覚えのある匂い。煙草の、匂いだ。きりきりと、心臓が引き絞られるように痛んだ。麻衣の視線を追い、振り返る。
 雅哉が、そこにいた。

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