序章 月のきれいな夜だった。

-06-

 肩に手を置かれ、ゆっくりとベッドに横たえられる。目を閉じると、唇に唇が押し当てられた。反応を見るように触れ、触れてはまた離れる。少しずつ角度を変えながら、啄むようにして下唇を吸われ、冷たかった唇がだんだんとぬるんでくる。

 キスして、いい?
 かつての恋人の顔が脳裏に浮かんだ。
 熟れた林檎のように赤くなった、ひどく照れ臭そうな顔。
 はじめてのキス。
 お互いはじめてで勝手が分からず、ぶつかった歯にくすくすと笑い合った。
 甘い記憶。甘くて痛い、思い出。

 唇を割って、舌が入ってきた。ぬるりとした得体の知れない感触に、ぞわりと肌が粟立った。気持ち悪い。そう思うのに繊細で、激しいキスに次第に息が上がっていく。
 怯え切っていた舌を絡み取られた瞬間、吐息と共に声が漏れた。自分のものとは思えないような甘さを含んだ声に唾液の絡まる音がかぶさる。はずかしさに、耳を塞ぎたくなる。
 キスをしながら、男はブラウスのボタンを器用に外していく。唇に落とされていたキスが顎へとうつり、さっき受け止めきれずに溢れた水の痕跡を辿るように首筋をなぞる。
 喉の奥で必死に声を押し殺していると、微かな舌打ちが聞こえ、男の身体が離れた。痺れた意識で男の気配を追うと、男は積み上げられた段ボール箱のひとつを開けた。なかから何かを取り出す。掌にすっぽりと納まるくらいの小さな時計だ。どうやらアラームが鳴っていたらしく、男はスイッチらしきものを押し込むと、ソファの上へと投げ置いた。
 照明が消され、ベッドの足元のフロアーライトの明かりだけになる。仄暗くなった室内は一気に淫靡な雰囲気を増した。自分が今ここにいることがひどく場違いな気がして、美月は所在なく視線を彷徨わせた。
 鈍くベッドがきしみ、再び男が覆いかぶさってきた。とっさにきつく目を瞑る。が、予期した重みはどこにもかからない。おそるおそる目を開けると、こちらを見る男と視線が絡んだ。何かを探るような視線。慌てて瞼で遮る。じわりと滲み始めた恐怖を知られたくなかった。
 男は瞼にキスを落とした。大きな掌は宥めるように頬を撫で、髪を撫で、唇は顔の輪郭を辿っていく。ブラウスを脱がされ、ブラジャーも取り払われた。
 痛いくらいに鼓動をの早くなった心臓を覆うようにして胸元に手をやる。それほど大きいとはいえない胸を無防備に晒すことにはやはり抵抗があった。だが、その腕は男の手によりいとも簡単に解かれ、腕一本で頭上にまとめあげられる。
 守るものがなくなった乳房に手のひらが覆いかぶさる。少し冷たい指先に、反射的に身体が跳ねた。なのに指が皮膚の上を滑るにつれ、そこから熱が生まれ、広がっていく。耳朶をやんわりと噛まれ、そのまま舌先でねっとりと嬲られ、堪え切れずに声が漏れた。
「……もっと声、出せ」
 耳元で声が囁く。首を振り、拒むと、胸の先をきゅっとつままれた。強い刺激に思わず顔をのけぞらす。声は辛うじて噛み殺した。すでに起ち上がっていた先端を指先で執拗に弄られ、味わったことのない痺れにも似た快感に翻弄される。
「意外に頑固だな」
 笑いを含んだ、艶やかな声が鼓膜を震わせる。──もっと聞きたい。もっと。縋るようにして男の背中に手を回すと、男はため息のような息を吐いた。 
「煽るなよ、止まんなくなるぞ」
 それでもいいのか、と耳元で囁かれた声は熱く湿っていて、その言葉の意味を考えるより先に身体が一気に熱をもった。答える代わりに首に回した手に力を込めると、吐息ごと口を塞がれた。さっきとは比べものにならないほど荒々しいキス。おずおずと差し出した舌に、舌が絡む。さっき感じたような嫌悪感はもう、なかった。
 熱い舌が口のなかを荒々しく探る。何かに追い立てられるような性急なキスに、息継ぎの仕方さえ分からなくなる。だが、キスの激しさとは対照的に、男の手は相変わらずやさしかった。まるで壊れ物でも扱うかのように、ゆっくりと皮膚の上を滑っていく。指のあとを追うようにして唇もまた離れていった。鎖骨を甘噛みされ、ちょうど心臓の上あたりの皮膚を強く吸われる。
 男の髪がシャンプーの甘い匂いとともに鼻先をくすぐった。自分とはちがう匂い。骨組みもまるでちがう。細いけれど、ちゃんと筋肉ののった身体はかたくしなやかで、男の人の身体だった。
 彼がその気になれば、私の身体なんてきっとあっけないくらい簡単に壊れてしまうのだろう。ふいにそんな考えが頭をよぎる。それは恐怖、というよりは、甘美な閃きであった。 
 そうだ。壊れてしまえばいい。何も残らないくらい、跡形もなくなるくらい。そうすれば、そうすればもう──

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