序章 月のきれいな夜だった。

-07-

 男の手が唯一残された下着へと伸ばされ、そして止まった。指がゆっくりと、見つけたもののかたちを確認するように慎重にたどる。いびつに盛り上がった皮膚。ちょうど下着に隠れる臍の下あたりにそれは、ある。醜く引き攣れた古い傷跡。探せばもっと、身体の至る場所に小さな痕跡を見つけられるはずだ。
 男とこうなることを望んだときに、覚悟はしたはずだ。はずなのに。知らず身体が逃げようとしたが、男はそれを許さなかった。唇が覆うようにしてその部分に触れる。舌が引き攣れた皮膚の上を滑る。あ、と声が出て、腰が跳ねた。
 浮いた腰に男の腕が絡まる。男は傷を舐めた。執拗に、何度も。まるで、滴る血を舐めとるかのように。傷はとうに塞がっているというのに。
 見上げた天井がゆらめきはじめた。やわらかな、水の世界に沈んでいく。彼が触れるたび、自分のなかの何かが音をたてて崩れていくのがわかった。それを望んだはずなのに。なのに唐突に、よく分からない恐怖に囚われた。するすると伸びてきたそれに四肢を掴まれ、どこかへ連れて行かれそうになる。
 怖い。怖くて怖くて、震えながら泣いていると、男が手を伸ばし、頬をするりと撫でた。と、手足に絡んでいたものは、あっという間に解けて消えた。涙が男の手を濡らす。濡れた親指が、つっと唇の輪郭をなぞった。
 キス、して。もどかしく懇願すると、男は了承して唇を押し付けた。とてもやさしいキスだった。そこに「愛情」という名の感情があると錯覚してしまいそうなほどに、やさしいキスだった。 
 唇と唇が触れ、熱と吐息が合わさる。頬に伝った涙を男の舌が舐め、口から漏れる嗚咽さえも舐めとりながら、やがて下着のなかに這わされた男の指がゆっくりとなかに入ってきた。びくり、と身体が反応するが、思ったほど痛くは、ない。男は入り口のところで指を浅く往復させた。男の指が動くたび、ぴちゃぴちゃと水音がたつ。男の腕を掴み、小さく悲鳴を上げる。たとえようもないほどの羞恥に襲われる。男の指はさらに深みを求めて潜り込もうとし、
「おまえ、もしかして、」
 その先に続く言葉は容易に想像がついた。美月はちがう、と機先を制した。
「ちがうの。……す、すごく久しぶりで、だから……」 
 男の指は閉じた内部に行く手を阻まれる形で止まっていた。しばらく行為をしていないためだ、という美月の言葉を信じたのかどうか。男の指が再び動き始めた。指にぬめりを纏わりつかせ、慎重に、とても丁寧に、なかをほぐすように動く。
 やがて痛みが別のものにすり替わったころ、男はシャツと下着を脱ぎ去ると、ベッドの脇から避妊具を取り出した。そのことにほっとしたのもつかの間、ショーツを脱がされ、内腿に手が当てられ開かれると、喉の奥がひくりと震えた。
 その瞬間は、やはり恐怖でしかなかった。男はゆっくりと、様子を窺いながらとてもゆっくりとなかに入ってきた。痛い。熱い塊に、柔肉をこじ開けられる感覚。息をつめ、耐える。
「……大丈夫か?」
 男が掠れた声で訊いた。気遣いながらも、男もまた切羽詰まった表情をしていた。汗で額に髪が貼りついている。色っぽい。男の人にこんなことを思うなんて初めてだ。
「へい……き」
 苦しい息の底から声を絞り出す。男が少しずつ身体を進めるごとに圧迫感が増していく。皆、こんなことに耐えているのだろうか。ほとんど拷問に近い。荒い息のなかで耐えていると、男の身体がぴたりと密着し、ようやく終わったのだと、つめていた息を吐きだす。 
 だが、それは終わりなどではなかった。動いていもいいか、との問いに返す間もなく、男が押し付けていた身体を引いた。辛うじて悲鳴を堪え、男の背にしがみつく。男は緩やかに身体を揺すりはじめた。は、は、というどちらのものかも分からない息遣いに、ぎしぎしとベッドが軋む音が重なる。内臓を抉られ、身体がバラバラに引き裂かれるんじゃないかと思うような痛みのなか、美月はふと、カーテンの隙間からのぞくものに目を奪われた。
 月だ。夜に沈む、円く、白い月。青白い光に輪郭が滲んでいる。
 とても、きれいだ。
 ふいに周囲から音が消えた。何もかもが消え失せる。肉体から、意識が離れるような。
 そして気がつく。
 壊れてしまえばいいなんて。
 跡形もなくなるくらいバラバラにしてほしいなんて。そんなの。
 そんなのもうとっくに、だ。 
 私は死んでしまったのだから。
 私はあの時、もうとっくに、ばらばらになってしまっていたのだから。
 けど、それなら? それならここで痛みを味わっている私は何なんだろう。
 
 世界は再び、戻ってきた。
 男の一部は、まだ身体のなかにあった。美月の身体を隙間のないくらい抱き締めたまま、荒い呼吸をくり返している。
 美月はゆるやかに男の背に手を回した。汗に濡れている。あたたかい。目を閉じ、ぬくもりを味わう。
 すぐそこで、鼓動が聞こえた。同じ音が、自分からも。
 急速に訪れた睡魔を感じながら、美月はひとつずつ、散らばった欠片を拾い始めた。


                              序章 了

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