序章 月のきれいな夜だった。

-05-

 床に直置きされた、どう見ても壁にかけるタイプの時計に目をやる。時計の針は十一時少し前を指していた。三月二十七日。もうじき「今日」という日が終わる。
「ほら」
 促され、頷く。空いたほうの手で涙を拭い、それからシュークリームに両手を添えた。ちいさな、とても小さなバースデーケーキ。大きく息を吸い込み、ふうっと息を吹きかける。たったひとつの火はあっさり消えた。細く白い筋が立ち上り、あの独特のロウの匂いが漂った。
「食べて、いい?」 
 もちろん、と男の手が蝋燭を抜き取った。シュー生地は驚くほどやわらかく、少し力を入れただけで指が沈んでしまう。指先にあまり力を入れないように気をつけながら、かぶりつく。
「おいしい」
 甘い。またみるみるうちに視界が滲んでいく。洟をすすりながら食べるシュークリームは甘くて、ほんの少ししょっぱかった。きれいに食べきってしまったあと、手についたクリームの始末を考える。家でなら躊躇いなく舐めてしまうが、さすがにはしたない。どうしようかと思っていると、横から男の手が伸びてきた。そのまま手を引き寄せられ、あっと思う間もなく、指は男の口のなかに消えた。
 男の一連の動作はあまりに自然で、自然すぎて何が起こったのかよく分からなかった。指先をゆっくりとなぞる温かくてやわらかいもの。
 指を口に含まれ、舐められている。
 ようやくそのことが実感としてやってきたと思ったら、すぐ目の前に男の顔があった。とっさに目を瞑る。予想した感触は唇に、ではなく頬にきた。おそるおそる目を開けると、男はぺろりと自分の親指を舐めたところだった。
「クリーム、ついてた」
「……あ、うん」
 慌てて視線を下げる。さっきまで男の手のなかにあった右手を胸に抱く。まだ濡れた指先は、男の舌の感触を覚えていた。
「キスされるかと、思った?」
 図星をさされ、一気に顔が熱を持つ。恥ずかしさに消えてしまいたくなった。どう答えたらいいのかも分からず、美月は俯いたまま小さく首を振った。
「動けるようならシャワーを浴びたらいい。タオルと、あと着れそうな服も一応置いといたから好きに使って。それからベッド、使っていいから。俺はソファーで寝るし」
 ぽん、と美月の頭に手をのせ、男が立ち上がった。考えるより先に手が伸びていた。男のシャツの裾を掴んだまま、そのあとどうしたらいいのかも分からず、また黙る。
「どうした?」
 男は再びベッドに腰を下ろした。
「ごめん。……何でもない。行っていいよ」
 なのに、シャツを掴んだ指を解くこともできない。自分で自分がよく分からない。
 いて。傍にいて。口をついて出そうになった言葉を慌てて呑み込む。男はただ黙って美月の言葉を待っていた。沈黙が痛い。時計の秒針が時間を刻む無機質な音が、やけに響く。美月はいたたまれずに、スカートの上に置いた手を眺めた。マニキュアの塗られた爪。何だか他人の手みたいだ。そう思った。
「そういえば喉乾いてたんだっけ?」
 ふと思い出したように男が言い、美月は「あ、うん」と、助け舟とばかりにその言葉に飛びついた。男がペットボトルのキャップを開ける。受け取ろうと手を伸ばすと、そのまま手首を掴まれ引き寄せられた。突然のことにバランスを崩し、男のほうに倒れ込む。
 そのまま顎をすくいあげられ、唇に何か温かいものが押し当てられた。割り開かれ、流し込まれたものを辛うじて飲み込む。つめたい。口移しで飲まされた水は酒と煙草の味がした。唇がゆっくりと離れた。男の掌が頬を包み込む。
「……怖い?」
 目を、覗き込まれる。何かを探るように。怖くない。首を振ると、男は唇の端だけでかすかに笑った。
「さっきは震えてた」
 そう言って親指の腹で、すうっと頬をなぞられる。さっき、クリームがついていたと拭われたあたりだ。
「ぎりぎりまでは我慢した。けど、俺も所詮『そんなもん』な男、だからさ」 
 睫が触れ合いそうな距離で囁かれた声に、ぞくりと何かが背筋を這い上った。美月が少しでも嫌がる素振りを見せれば、男はそれ以上のことはしてこないだろう。そんなつもりじゃなかった。ひと言、そう言えばいいだけだ。だけど──
「もういちど」
 声が震える。恐怖からではない。恥ずかしさに泣きそうになりながら、言った。
 もう一度キスして。

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