第5章 白い足あと

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 突然、横から鋭く割って入った声があった。里佳だ。安斎はというと「え?」と、顔に中途半端な笑みを貼りつけたまま固まっている。
「身元が判明した、どうにか片がつきそうだ、ってとこ? そりゃ、あなたにしてみれば喜ばしいことよね。けどさ、こっちにしてみれば、できれば違っていてほしかったわけよ。けど違わなかった。で、今まさにどん底状態。なのに、そんなあからさまに目の前で喜ばれたりなんかしたら、気分悪いことこの上ないってもんじゃない?」
 あまりにストレートに投げつけられた非難に安斎は恐れ慄いた表情をした。
 安斎の言動にムカついたのはたしかだ。だが、ロビーで顔を合わせたときから、安斎から里佳に向けられた熱っぽい視線には気がついていた。そんな相手からそんな仕打ちを受けるとは。同じ男として多少の同情は禁じ得ない。
「それとさ、あれってどういうこと?」
 里佳は顎でくい、と美月のいる部屋を指し示した。
「あ、あれとは?」
 安斎がすっかり怯え切った声で尋ねる。ふと、昔、実家で飼っていた犬を思いだす。叱られると耳を垂れ、尻尾を股のあいだに挟んで上目遣いにこちらの様子を窺っていた小さな犬を。
「なんで男しかいないの?」
「なんで、とは?」
 安斎のその返しに、里佳は苛立ちを露わに顔をしかめる。
「彼女がどういう状況で保護されたのかとか、あなた詳しくは教えてくれなかったけど、どうも変質者に襲われたらしい、みたいなこと言ってたわよね。ていうことは色々と事情聴取まがいのことしたわけでしょ? なのになんで、男しかいないわけ? そんな怖い目見た女の子に男性職員あてがうって一体どんな神経してんのよ」
「い、いえ、話を聞かせてもらったときには、女性署員もちゃんと一緒にいて、あの、ほんとさっきまでは女性もいたんですけど、今たまたま席を外してるだけで、その、」  
「たまたま席を外したにしろ何にしろ、今は男しかいないじゃない。だいたいさ、あんたたち警察ってやつはいつだって、」
「里佳」
 彼女の肩に軽く置いた手でストップをかける。里佳は我に返ったように振り返った。
「もう、それくらいにしとけ」
 彼女の主張はもっともだし、おそらく正論だ。「おそらく」というのは、自分が「男」であるからだ。正直、自分にはそこまでの気は回らなかった。安斎と同じように。
 だが、いくら正論とはいえさすがに今のは言葉が過ぎた。
 自覚はあったのか、里佳はバツが悪そうに視線を落としたあと、「ちょっと酔い、醒ましてくる」と、踵を返した。

「すみませんでした。多少酒が入ってるとはいえ、失礼なことを」
 相手が相手なだけに、「酒のせい」と逃げを打った。だが、安斎もまた深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ配慮が足りませんでした。本当に申し訳ありませんでした」
 そして、存外に安斎の切り替えは早かった。すぐに女性署員を呼び戻しに走り、なかにいる男性署員と入れ替える手筈を整えた。
「あの、彼女と話をさせてもらってもいいですか?」
 安斎が女性署員を連れて戻ったタイミングで申し出る。
「あ、はい、もちろんです」
 安斎が扉をノックすると、なかから男性署員が顔を出した。どうぞ、と促され、室内へと足を踏み入れる。なかは空調がよく効いているようで少しむっとしており、壁紙のなかにまで滲みてそうな煙草の匂いが鼻をついた。きっと会議室として使われているのだろう。長机とパイプ椅子が並べられている。
 美月はそのなかの一つに座っていた。壁際の椅子の背に掛けられた、白いコートが目に留まる。美月が着ていたものだ。裾のあたりに泥汚れがついている──さっき会ったときにはなかったものだ。
 彼女はこんな状況にあっても、「らしさ」を保っていた。すっとまっすぐに伸ばされた背筋、膝上に揃えて置かれた手。空(くう)を見据える横顔はいっそ凛々しくもあった。
 一緒に入ってきた女性署員が声をかける。一拍置いて、美月がゆっくりと振り返った。滑るように視線が雅哉へと移る。
 美月はあの修学旅行以来、眼鏡をかけることをやめていた。遮るものの何もない目がまっすぐに雅哉を見た。と、みるみるうちに、目の縁に涙が盛り上がっていく。
「……綾瀬」
 雅哉の声に美月がびくりと身体を震わせる。瞬きをした拍子に、白い頬に涙が落ちた。そしてふと気がついた。片側の頬だけ、やけに赤いことを。視線は彼女の口許に吸い寄せられ、そこで雅哉の思考は凍り付いた。内蔵をぐっと握りこまれたような感覚に、思わず顔をしかめる。
 唇の端にうっすらと滲んだ血、糸が千切れて取れそうになったブラウスの胸元のボタン。痕跡は、あちこちにあった。
(彼女、自分で転んだんだと言い張ってて)
 どうしてそんな。
 あまりに見え透いた嘘をつく彼女に、困惑を通り越して憤りさえ覚える。
 雅哉が歩み寄ろうとすると、美月は勢いよく立ち上がった。はずみで椅子が大きな音をたて、倒れる。
 無意識に手を、伸ばしていた。できることなら、まるごと取り去ってやりたかった。彼女が感じたであろう恐怖も、今、感じているであろう痛みも、何もかもぜんぶ。
 だが伸ばしたその手は、小さな悲鳴と共に振り払われた。
「触ら……ないで」
 逸らされた視線、震える肩。彼女は全身で、雅哉を拒絶していた。

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