序章 月のきれいな夜だった。

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 冷たいドアノブを掴み、腕にぐっと力を込める。建てつけが悪いのか、「非常口」と書かれたここの扉はやけに重い。あちこち赤錆の浮いた鉄製の扉は、きい、といつも以上に耳障りな音を立てた。辛うじて開いた隙間に身体を滑りこませるようにして外へ出る。
 終わった。ようやく終わったのだ。
 はあ、と美月は大きく息を吐いた。慣れない職場での仕事は思った以上にきつかった。だが、それも今日で終わりだ。
 一歩、足を踏み出すと、ビルとビルのあいだを抜けてきた風が頬をさした。あと少しで三月が終わる。日中はずい分と春めいてきたとはいえ、夜の風にはまだ冬の名残りがあった。
 首に巻き付けた大判のストールに顔を埋める。と、コートのポケットに入れていた携帯電話が振動で着信を告げていることに気がついた。
「もしもし?」
 電話の向こうから聞こえてきた声には少し疲れが滲んでいるような気がした。無意識に、だろうがときおり会話の合間に挟まれる控え目な溜息がそれを裏付ける。声が遠い。携帯に耳を押し付けるようにして話す。
「そっちは雨、なんでしょ? ……うん、予報で言ってたから」
 話しながら右手に視線を落とす。もうじき春だから、と休憩時間に同僚に悪戯に塗られてしまった桜色のマニキュア。かりかりと親指の爪で削ってみる。
「そう。なら、よかった。……うん、うん、私のほうは大丈夫。心配しないで。ちゃんと戸締りもするから」
 きっちりコーティングまでされてしまったマニキュアはなかなかに頑固だ。ところどころに汚く残ってしまった薄いピンク色の筋を眺めながら、ちいさく息を吐く。
 やっぱりちゃんと除光液使わないとだめか。除光液、持ってないんだけどな。
「……そんなのもう子供じゃないんだからいらないって。うん……うん、分かった。私のことは気にしなくてもいいから」
 美月以外の家族は今朝から母方の実家に帰省中で、帰るのは明日の夕方の予定だ。
「じゃあ、おばあちゃんによろしく」
 話を畳もうとしたところでふと、「あの、おかあさん、」と、電話の向こうに呼びかける。
 一体、何を言おうとしたのだろう。自分でもよく分からなかった。けれど、生まれ落ちる前に消えてしまった言葉など、きっとそのまま忘れてしまった方がいいのだ。
「……ううん、なんでもない」
 通話を終えた携帯をバッグにしまう。手が冷たい。息を吐きかけると、白く濁った息はあっという間に夜に吸い込まれていった。
 早く、戻ろう。化粧を落としたい。厚く塗ったファンデーションも、重ねづけしたマスカラも、巻いた髪も、何もかもが重たくて仕方ない。熱い湯に浸かって、布団にくるまって眠ってしまおう。そうして「今日」という日を、早く終わらせてしまうのだ。
 この時間ならまだバスに間に合いそうだ。足早に路地を抜けた美月は、ちょうど表通りへ出たところで男とぶつかりそうになった。おっと、と男が驚きの声を上げる。
「誰かと思えば、彩華ちゃん」
 「彩華」というのは店で使っていた名前で、その名で呼ばれることには未だに慣れることができない。店でも何度、スルーしてしまったことか。
「え、もしかして今日はもう上がりなの?」
「あ、はい。そうなんです」 
「そっかあ、残念だな。今日もきみに会えるのを楽しみにして来たのに」
「……すみません」
 下げた視線の先、よく磨かれた高級そうな革靴が目に入った。そういったことに疎い美月でも一見して分かるような上質のスーツの上にトレンチコートを羽織ったその男は、若く見えるがもう五十半ばだという。名前は川崎、という。
 川崎は週の半分は店に顔を出しているらしい、いわゆる常連客だ。客のなかには酔った勢いで下卑た言葉を投げてくるものもあったが、川崎は美月が知るかぎりそういったことは一度もない。紳士的で見目もよく、さらには羽振りもいい男は店の女性陣の人気がすこぶる高かった。が、じつは美月はこの男がすこし苦手であった。
「今日はもうこれから家に? それとも彼氏とデートかな?」
「いえ、彼氏なんてそんな、」
 軽口に軽口で返したつもりだった。──が、
「へえ?」
 川崎が微かに目を細めた。ざわりと肌が粟立つ。男の瞳の奥のほうにどことなく妖しい光を見た気がした。そうだ。この目だ。いつも柔和な笑みを浮かべている男が、たまに垣間見せるその色。赤く、ゆらめく。ずっと気づかないふりをしてきたその色が、ゆっくりと触手を伸ばしてくる。
 そしてその目に、美月は覚えがあった。
「私、もう帰らないと」
 失礼します、と頭を下げ踵を返そうとしたところで、手を引かれた。
「よかったらいっしょに食事でもどう?」
 あくまで決定権をこちらに委ねる体を装いながら、美月の手首を掴んだ男の手には有無を言わさぬ強さがこめられていた。
「あの、私、」
「べつに予定はないんだよね?」
 店の前だ。相手が「客」である以上、無碍に断ることはできない。紳士的? どこが。熱の籠った視線。男の目には明らかな欲望の色があった。
 友達と食事に。予定があるので。理由はどうとでもなる。そう思うのに言葉が出てこない。掴まれた手首が痛い。怖かった。引いた手はぴくりとも動かない。圧倒的な力の差。手首からじわりじわりと広がった恐怖はあっという間に全身を縛りつけ、そして支配していく。
 さあ、と手を引かれる。がんじがらめにされた身体はいとも簡単に男の言いなりになる。それを男は勝手に「了承」として解釈したようだ。川崎は手を上げ、タクシーを呼び止めた。そしてそのまま美月を後部座席に押し込もうとする。
 震える足を踏みしめ、精一杯の抵抗を試みようとした、その時だった。ふいに、後ろからものすごい力で引っ張られた。川崎が思わず手を離してしまうほどの強さで。
「遅い。早くしないと映画が始まるぞ」
 背後で声がした。若い男の声だ。そのまま今度は反対のほうの腕を引かれ、歩道へと連れ戻される。
 映画? え、なに? 
 何が起こったのか理解できなかったのは川崎もまた同じだったようだ。一瞬、呆気にとられた顔は直後、憤怒の形相に変わった。
「おい、おまえ!」
 突然の闖入者に食ってかかる。今や川崎の仮面は完全に剥がれ落ちていた。だが、男はそんな川崎に頓着することなく、歩き出していた。腕をとられたままの美月は引き摺られるようにして、男のあとを追う。もつれそうになる足を懸命に動かしながら後ろを振り返る。川崎はまだタクシーの横にいた。川崎はもう追ってはこなかった。

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