序章 月のきれいな夜だった。

-02-

「ちょ、ちょっと待って。ねえ、」
 数十メートルは歩いただろうか。美月の声に、男はようやく足を止めた。掴まれていた腕も解放され、ほう、と息を吐く。
「……あの、映画って、もしかして人ちがいじゃ、」
 振り返った男を見た美月は思わず息を呑んだ。男はとてもきれいな顔立ちをしていた。年の頃は二十代半ばといったところか。背が高く、手足も長い。もしかしてモデルか何かでもしているのだろうか。どうりで、さっきからやたらと視線を感じるわけだ。おもには女性たちの。美月は得心がいった。
 だが、すこし浮ついた気分はそこまで上昇することはなかった。彼の目つきの悪さがそこはかとない険悪さを漂わせていたからだ。さらには、
「おまえ、アホだろ」
「え?」
 思ってもみない言葉に耳を疑う。そしてさらに次の瞬間には、一気に叩き落されることとなった。
「ずっと聞いてりゃ、いいんだかよくないんだかのらりくらりと。嫌ならいやってはっきり言えよ。そういう態度だから、あんなおっさんにつけこまれるんだろうが。それができないんだったら、そもそもあんな商売につくな。どう考えてもあんた、ああいうの向いてないだろ」
 きれいな顔をした男の口から次から次へとくり出される辛辣な言葉は、かなりの破壊力をもって美月を攻撃した。だが、言われたことは至極まっとうで、しかも自分自身感じていたことでもあり、美月はただ、すみません、と項垂れるしかなかった。
「……いや、その、」
 さすがに言いすぎたと思ったのか、男は苦った顔で頭をかいた。
「べつに聞こうと思って聞いてたわけじゃなくて。たまたますぐ傍にいて、さ。その、待ち合わせしてたんだけど、見事にすっぽかされて」
 彼女と待ち合わせでもしていたのだろうか。スナックやバーなどがひしめき合う歓楽街で待ち合わせというのも、何だかへんなかんじではあるが。
「おまけに来る途中に眼鏡壊してなんも見えないしで。それでちょっと、……いや、かなりイラついてたっていうか、」
「……ああ、だから、」
「『だから』?」
 うっかりこぼした独り言は、拾われてしまっていた。一瞬迷ったものの、
「いえ、目つきが悪いのは眼鏡がなかったせいだったのかって」
 言ったあとで、やはり失言だったと後悔する。怒らせたかな。だが、予想に反して男は「意外に言うな、あんた」と、おかしそうに笑った。目尻がほんのすこし下がり、印象が柔らかくなる。ほっとした。
「まあ、たしかに裸眼だと正直かなりキツい。あそこまで行くのにも相当苦労したし、今もあんたの顔はぼんやりと輪郭が分かるくらいで、」
 言いつつ男は美月の顔に視線を固定したまま目を細める。言うように、ほとんど見えてはいないのだろうが、やはり他人からまじまじと眺められるというのは照れくさい。相手が異性で、しかもかなり上等な部類の人間ならなおさらだ。
 顔を伏せ、視線から逃げる。顔が熱い。
「とにかくそういうわけで、さっきのは言ってみれば八つ当たりだ。ほんとわるかった」
 よほどバツが悪かったのか、男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、そんな、助かったのは事実ですし」
 理由はどうあれ助けられたことは事実だ。正直、あの場面で見ず知らずの他人のためにあえて切り込む人など、きっと滅多にいない。
「ほんと助かりました。ありがとうございます」
 下げた視線の先、男の靴が目に入った。靴紐がきっちり結ばれたダークブラウンのマウンテンブーツ。何だか懐かしくて、頬が緩む。
「あの、何かお礼を」  
「いいよべつにそんな。じゃあ」
 ひらりと手を振り、歩き出そうとした男はふと思い出したように振り返った。
「前言撤回。やっぱお礼、してもらおうかな」
「はい?」
「メシ、付き合ってよ」
「え? あ、はい」
 反射的に、頷いていた。
「ああ、それから」
「……はい?」
「もちろん嫌ならいやってはっきり断ってもらっても構わないから」
 まじめな顔で言う男に、美月は思わず笑ってしまっていた。

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